2008年2月28日木曜日

6 携帯がなった。

携帯がなった。
見覚えのない電話番号だ。
普段なら、見知らぬ番号はとらない。
「もしもし、近藤さんでしょうか?」
私の名前を知っている。
私は、自分の知り合いの声をさがしてみる。
聞き覚えのない声。
「はい、そうです」
私は、あまり感情を乗せない声を出した。
相手がわからない状況ではこう言う声になる。
「私です。わかりませんか? 長野でのキャンプでいっしょに道を探した渡辺です」
私の記憶の引き出しが出たり入ったりしながら、長野のことを探り出す。
記憶に、長野でのキャンプをしたことを浮かびあがらした。
夜通し、山の中を二人で道に迷い、明け方になってようやく、大きな道に出た。
辛いが楽しい思い出を共にした女性だった。
「あー、あの時の渡辺さん。思い出しましたよ。元気でしたか?」
私の心は、急にウキウキしてきた。
かわいい女性が私を覚えてくれていて、三年ぶりぐらいに電話までしてきたのだから。
その反面、心のどこかで警戒をするようにとの声が聞こえてきていた。
何年も会ってない友人からの連絡には、ろくなことがないのが世俗の常だからだ。
私は、喜びながらも、何故、私に連絡してきたのかを、探ろうとしていた。
女性の名は、渡辺さゆりといい、若くて美しい女医である。
三年ほどまえの事、私が長野の山の中で一人キャンプをしようと山の方へと自転車を走らせているとき、車の故障で立ち往生している彼女に出会ったのだ。
車は、すぐには直すことは出来ないと分かると、私についていきたいと言い出したのだ。
こんな山奥で女ひとり明日までいるのは、怖いのでいっしょにキャンプに連れて行ってくれと懇願されたのだ。
私は、元来、独りが好きで、こんな山の中まで一人で来る人間なので、迷惑に感じていた。
男とは、困ったもので、困っている女性でも仲良くしていれば、後でいい思いが出来るのではと、下心を丸出しで女性の同伴を了解した。
女性は、山で野草を探していたので山歩きの服装としては問題なく、山の中を歩くのもそれほど、苦には、していなかった。
私は、自転車を車の傍におき、いっしょに歩いて、山にはいっていった。
私は、女性がいるせいか、まわりの目印や方角をよく確認をせずに
調子にのってどんどん山の中に入っていった。
そのおかげで三十分ほどで、完全に方向感覚を失った。
道に迷ったのである。
私は、彼女に道に迷ったことを悟られないように平然としていた。
辺りも暗くなり始めていたので、テントを張ることにした。
彼女は、テント張りも手伝った。
飯は、いつも多めに持ってくるので彼女にもそのことをいって、分けた。
彼女は、外で食べるのはおいしいと、即席ラーメンを喜んでいた。
食事の後は、お茶を飲みながら、お互いのことを話していた。
数時間前にあったばかりの二人であったが、長いことの友達のように、親しく話した。
気楽にいられた。
それでも、寝るときになって困った。
テントは、いつも、一人キャンプなので一人用なのだ。
彼女は、寝ないで朝まで起きていようとしていたが、そういうわけにもいかず、彼女がテントで寝て、私が外で寝ることにした。
幸いにも、その日は、雨も降らずに助かった。
しかし、蚊には、ずいぶんかわいがられた。

翌朝、いい天気だった。
山には、薄い靄が立ち込めていたが、澄んだきれるような空気の中を神々しいほどの朝日が穏やかに照らしていた。
彼女のテントは、静かなままだった。
私は、朝日の中、お茶を沸かして、飲んでいた。
そうしている間に、彼女もテントから出てきた。
明るい日差しの中で、お互いの顔をみるのは、前日の夜の出会いのときとは、何かが違うようで、何か気恥ずかしいものを感じていた。
二人は、挨拶を交わし、静かに、お茶を飲んでいた。
お茶がおいしかった。

それから、テントを二人でしまい、山を下り始めた。
山を歩き始めると、前日のように喋り始めた。
楽しかった。
楽しかったせいか、すぐに、彼女の車のところについた。
そこには、車の修理の人が来ていた。
他人がいるようで、急によそよそしく彼女は、私にていねいにお礼を言った。
私も、つられて丁寧に話して、そのまま、さよならをした。
数日は、彼女のことを考えていたが、いつのまにか、記憶からなくなっていた。
その彼女が、今、電話をしてきたのだ。
なつかしい、うれしい。
でも、どうして、彼女は私の電話番号を知っているのだ。
私の沈黙に彼女は、そのことを察したのか、番号のことを話し始めた。
「私が近藤さんの携帯番号を知っているのを不思議に思っているのですね。ごめんなさい。それは、今度お会いしたときに、教えます。聞いて、ビックリしますよ」
女性は、すこし、からかっているようなかわいらしい笑いをのこして、次の土曜日に美術館で会う約束をして電話を切った。
なにやら、不安のような、楽しいことのような、どちらともつかないような気分になっていた。

土曜日。
上野の美術館に私はいた。
すこし、早く着すぎたようだった。
それでも、それほど、退屈はしなかった。
私の好きなモディリアーニの絵がいくつも見ることが出来たからである。
彼の絵の中の人びとの心を描き出すあの黒く塗りつぶされた目は、ほんとにすばらしい。
ルノワールやマネなどきれいな印象派の画家とは、異なる現実を見ていた彼の心もまた、彼の絵の中の人びとと同じものを持っていたのだろう。
そんなことを考えて楽しんでいたら、彼女との待ち合わせの時間になっていたらしい。
彼女は、私の後ろに立って、私と同じ絵を見ていた。
あのときは、かわいらしいと思っていたが、いまは、きれいだと思った。
三年たったからなのかもしれない。
女性は、変化が速いものだそうだから。
「近藤さんて、けっこう格好いいのね」
微笑みながら、抑えた声で私の耳元の空気をゆらす。
「何をからかっているのですか。照れてしまうじゃないですか」
私も、小さく、彼女の耳元へと返す。
「いいえ、絵をみている姿を後ろから拝見してて、すてきでしたよ。
きっと、ここにいる女性の方たちもそう思っていますよ」
にこやかにからかうようにさらりと言う彼女の美しい動きに感動していた。
絵の前にたたずんでいる彼女こそ、ルノワールの絵のようだった。
彼女は、そんな私の心を知っているかのように、微笑む。
彼女は、私に語りかけてきた。
私の耳に声を届かせているのではなく、私の心に彼女の声は聞こえていた。
私が驚く表情をみて、悲しそうに微笑む。
「あなたに会いたかったの。あの時から、ずっと、ずっと」
彼女の目からは、涙がこぼれ始めた。
私の心も直接彼女の心に届くようになった。
「どうして、会いたければ、働いている所を話したから、知っていただろうに」
彼女は、頭を小さく左右にふった。
「私は、あの山を出ることができないの。あの山を出ると、私は、存在できなくなるの」
「会えてよかった。あなたに、会いたくて、会いたくて、声を聞きたくて、山を出てきたの」
彼女の涙は、溢れつづけている。
「あなたが私のことをきれいと思ってくれたことは、うれしかったよ」
彼女の姿が消えた。

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