2008年2月28日木曜日

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春の夕暮れ。
池袋駅の東口。
大きな出入り口には、雑多な人々が行きかう日常の風景があった。
行き交う靴音がかたまりとなって響いている出入り口の端にその老婆はいた。
あまり手入れのされていない肩までのびた白髪頭の髪に、くすんだ色の服を身に着け、硬い石床に直に正座していた。
小さく曲げられた膝の前には、大学ノートが一冊ひろげて置かれている。
白いページに、罫線を無視した大きな文字がみだれるように書かれている。
私は、震えています。私は、震えています。私は、震えています。・・・・・・・・・     
その文字だけがいくつもいくつも繰り返されている。
緩やかに前後にゆれる老婆の身体。
そのうつろな視線は、数メートル先の固く乾いたアスファルトのひとところに向けられたままである。
干からびた小さな唇からは、身体のゆれに合わせるかのようにひとつの音がとぎれることなくこぼれ落ちつづけていた。
「ア、ア、ア、ア、ア、ア、・・・・・・・・・・」
そのような老婆に好奇な眼を向けるが、すぐに、日常の眼にもどり、意識を他のものへと移してゆく幾人もの人々が通りすぎていった中に、身体にピタリとあった濃い紺色のスーツをきれいに着こなした、ひとりの美しく若い男が立ち止まった。
男は、立ち止まった姿勢のままで老婆に視線を向けていたが、その前に置かれているノートに気づくと、そろりと近づいてゆく。
老婆の前に膝を落とし、ノートの文字をひとつひとつ丁寧に、声にならないような吐息で読んでゆき、老婆へと眼を向ける。が、老婆の視線は、動かない。
若い女性たちは、この美しい男に気づくと、ほほを染め、眼を輝かせながら通り過ぎていく。
 男は、老婆のほほにそっと手をのぼし、やさしく触れ、老婆の耳元に口をちかづけ、小さく囁いた。
「わたしは、大地、大地はあなた。
震えることはありません」
その言葉の直後に、前後に揺れていた老婆の身体は、ピタリと動きをとめ、眼を男の眼にあわせた。
 老婆の乾いた目はしだいに潤いが満たされてきて、こんこんと湧き出す涙が、ほほをつたい始めた。
老婆は、ノートの上につっぷして、幼女のように大きな声で泣きはじめた。
男は、老婆の小さな頭を、手入れされたきれいな手であやすようになでると、老婆のそばをそっと離れ、人ごみの中にまぎれていった。
 後には、老婆の泣き声が広がっていた。

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