2008年7月25日金曜日

73 眠らない男

その男は、今日も眠らなかった。
眠れない日が何日も続いているうちに、眠らないでも問題なく日常が送れるようになっていた。
もう一年も眠っていない。
はじめのうちは、眠らないでいると頭痛がしたり、周りのものが奇妙なものに見えたり、体がふわふわ浮かんでいるような感覚をおぼえたりしていたが、一ヶ月を過ぎたころ、突然、それがなくなった。
体の調子が良くなった。
むしろ、眠らなくなる前より、感覚が鋭くなったようである。
その他にも、運動神経も鋭敏になっている。
体の機能が向上しているのだから、いいことのようである。
しかし、男は、そのことを誰にも話すことはしなかった。
話さないほうがいいような気がしていた。
人間というものは、自分が持っていないもの、完全にかなわないものなどを相手が持ちはじめると、はじめは、いっしょに喜んでいるが突然、非難をし、攻撃をしてくることが多い。
人間は、突然変わってしまうものであるということは、それと似たようなことを味わったことがあった男には、わかっていた。
だれにも話すことなく一年が過ぎた。
感覚がさらに鋭敏になり、ものごとに対する見方、考え方も変わってきていた。
きれいに見えていた花がそれほどきれいなものではないことに気づいた。
もっと美しいものがまわりにあることに気づくようになってきた。
なんでもないものと思われていたものに美を見つけるようになっていた。
ひとつは、道路である。
日常歩いている道、足で踏みつけているアスファルトの道にも、表情のようなものがあるのである。
平らであることを当然としてみているアスファルトの表面のへこみや歪み、曲がり角などでのタイヤの後の微妙なつきかた。
太陽の照り返しや木々の影の落とし方、風に飛ばされるちり、車の通り過ぎるときのタイヤが踏みつけていく瞬間など、その瞬間、目に入る光の微妙な具合でアスファルトの表情が、いいのである。
目に見えるものと、見えないもの、その周りの空間に存在するあらゆるものがお互いに影響をおよぼしている状況を一度に同時に感じ取れるようになっていた。
それからは、周りの空間が気になりだした。
さまざまなところで、美くしいものにだけ気がとらわれるようになった。
日々の生活のためにする仕事にも気が入らなくなり、おろそかになるようになった。
そうしているうちに、会社も首になり、行くところもなくなり、やがて住むところもなくなってしまい、公園で浮浪者として暮らすようになった。
それでも、男は、美しいものにのみ興味を抱き続けていた。
美しいものを見ることこそが、人間の真の生きる目的だと考えていた。
男の感覚はさらに研ぎ澄まされてゆき、さらに、美しいものを見つけて続けていくようになった。
そして、それを公園を訪れる人々にいかに美しいかを話してまわった。
当然のことではあるが、普通の人間でしかない人々には、汚れきったぼろきれのようなものをまとった男が近づいてくることにさえ拒否反応を起こしていたが、まして、男の話す世界は、男にしか見えない世界であり、理解することができないものであった。
それゆえに、男の行動は、狂っているようにしか見えず、逃げ回っていた。 
男は、みなに理解してもらえずにいたが、それでも、自分の見えている世界を語り続けていた。
そんなことを続けているうちに浮浪者仲間からもうとまれるようになり、限られた食料も浮浪者仲間から嫌がらせによって、取ることができなくなり、日々、体力が落ちていった。
そのうち男は、一切の食べ物を口にすることもなくなり、ただ、公園の地べたに横たわっているだけになった。
 だれも男に関心を示してくれるものもなく、幾日もその状態が続いていた。
男は、いつしか、息を引き取っていた。
何年間も目を閉じることのなかった男のその目は、やわらかく閉じられていた。

2008年7月11日金曜日

72 卑怯者

 幼なじみのタケルと知恵は、大きな廃墟の前にいた。
大通りに面したその廃墟は、数年前まで、金持ちの年寄りが住んでいたところだが、いまは、だれも住む人もなく、荒れ果てていた。
赤い文字で大きく立ち入り禁止と書かれた木の板が門扉に吊り下げられていた。
「タケルやめようよ。なんかよくないよ」 知恵は、怖がっていた。
「だいじょうぶだよ。高校入試も終わったし、気晴らしにちょっと、見るだけだよ。中がどうなっているか見てみたいといったのは、知恵だろう」
「そうだけど・・・・・」
タケルは、門扉の横の小さな出入り口の取っ手を回して押した。
意外と簡単に開いた。
「いくぞ」
タケルも幽霊屋敷と言われているこの建物に入っていくのは、こわかった。でも、見てみたいという好奇心の方が勝っていた。
幼なじみの知恵の前で怖がっているのを見られるのが嫌なのでなんともない顔をして、入っていった。
知恵は腰が引けたようなへっぴり腰でついてきた。
夏の太陽は、傾きかけていたが、大きな庭には光が満ちていた。
どこにでもある庭が荒れ果てて、草が伸び放題になっているだけだった。
タケルはほっとした。もっと、おどろおどろしい感じを抱いていたのだ。
「ほら、なんともないだろ、知恵」
知恵は、あたりを見回しながら、うなずいている。
庭には、大きな木や石碑のもののようなものなど、元は花がたくさん植えてあったろうとおもわれるところなどがあった。
それらすべてが、草とつると覆われようとしていた。
荒れ果ててはいるが、お金持ちの家だったのは、よくわかる。
二人は、ゆっくりと正面にある大きな扉に向かっていった。
扉の前にたどり着くと、その扉は意外と大く威厳のあるものだった。
タケルが知恵を見て言った。
「入るぞ」
知恵の返事を待たずにタケルはノブを回して、引いた。
この扉も鍵はかかっていなかった。
以前にもだれかが進入したのかもしれないとタケルは思っていた。
その重い扉は長年風雨でさび付いて、引くのに結構力を入れた。
ちょうつがいの軋む音がおどろおどろしい感じを出していた。
扉からの光りが一気に中を照らし出した。
中は広く、金持ちらしいシャンデリアやさまざまな調度品があった。
物音ひとつしないそこには、外とは違う冷たく重い空気が満ちていた。
知恵は、タケルの袖をひっぱり、
「止めようよ。ここ変だよ」
と、泣き出しそうな顔になっていた。
「臆病だなあ、なんでもないよ。ただの大きな空き家だよ」
 タケルは、平気な風を装っていたが、心臓は激しく動いていた。
何かが普通の家とは違うことは、タケルも感じていた。でも、もう少しだけ、観たかった。
外の道路を車が走り去っていくのが耳に入ってきた。
「誰かに見つかるとまずいから、その扉閉めて」
「えっ、ここ閉めるの?」
「そうだよ。早く」
「でも、暗くなっちゃうよ」
泣きそうな知恵の顔が腹立たしくなり、
「いいんだよ、それでも、窓の明かりで結構見えるからだいじょうぶだよ」
と、叱るようにに言った。
知恵は黙って、その重い扉に体重をのせて押した。 再び、軋みながら扉はしまった。
扉の閉まる音が部屋中に広がり、辺りは、一気に薄暗くなった。
予想以上に暗くなった部屋にタケルは、扉を閉めなければよかったと思い直していた。 しかし、そんなことを知恵に悟られないように、大きな声を出した。
「よし、進むぞ」
二階へと上がる大きな階段が目立っていた。いかにも高そうなペルシャ絨毯が敷かれている。
その階段に近づいていこうとしたとき、何気なく、後ろを振り向いた。
(知恵?)
そこにいるはずの知恵がいなかった。
タケルだけがそこにはいた。
「知恵?どこ・・・・・?」
心臓が早鐘のように鳴り響き、体中から汗が出てきた。
タケルは恐ろしかった。
何が起こったのかわからなかった。
扉を開けて、知恵が出て行ったとは考えられなかった。
扉の軋む音は、知恵が閉めたときだけだった。
それをタケルは、見ていた。
知恵は、外には出ていない。
「知恵?どこにいるんだ?」
帰ってくる返事はなかった。
タケルの声がなくなると、辺りの静けさがいっそう怖かった。
(まずい)
タケルは、この状況がとんでもなく悪い事が起きているとわかった。
しかし、自分にはどうにもできない大きな力の起こしたことだとも悟った。
(ここにいるとあぶない)
入り口の扉に飛びつくと、思い切り押して、外に走り出た。
外の門扉の横のちいさな入り口も走り出た。
外にはいつものまばゆい光りと音が満ちていた。
外の空気を吸って、改めて廃墟の中の空気が普通でなかったことがわかった。
タケルの額には大粒の汗が噴出していた。体中が熱かった。
(どうしよう。知恵がまだ中にいる)
だが、タケルは足がすくんでしまい再び廃墟の中に入る勇気をだせなかった。
(どうしよう。知恵が中にいる。捕まっている)
門扉の前を行ったり来たりしながら、タケルの頭の中には、怖がりの知恵が泣き叫んでいる姿が見えていた。
(助けにいかなければ、知恵が泣いている)
でも、入れなかった。
怖くて、入れなかった。
大通りを行き交う車に乗っている女の人とタケルの目があった。
静かなその目はタケルを見続けていた。
一瞬のことだった。
その目は、一瞬で全てを語っていた。
臆病者、卑怯者、幼なじみの女の子を見捨てるなんて、男として情けないといっていた。
その後も通る人々の目もタケルを非難しているように見えた。
タケルは、その場にいることが耐えられず、走り出した。
必死に走った。
廃墟から少しでも離れたかった。
今、起こったことを忘れたかった。
なかったことにしたかった。
タケルはそのまま家に帰ると自分の部屋に閉じこもった。
恐ろしかった。
自分が知恵を置き去りにしたことが、恥ずかしかった。
知恵に申し訳なかった。
でも、怖くて助けにいく勇気はなかった。 
知恵は、あの後、家族から捜索願いが出され、警察が捜していたが、結局、見つからなかった。
タケルのところにも、警察が来たが何もいわなかった。

それから、何年かが過ぎた。
タケルは、廃墟でのことはだれにも話すことはなく、普通に暮らしていた。
 廃墟で泣き叫んでいる知恵の夢で、何度もうなされてはいたが。

2008年7月2日水曜日

71 ぼくが悪いんじゃない

 
 月曜日の朝も渋谷のスクランブル交差点は、人でいっぱいだった。
その中に今年入社式を迎えた木村五郎が真新しいスーツで身を包み歩いていた。
不機嫌な顔だ。
憂鬱な気持ちでいっぱいだった。
(ああ、今日もあの馬鹿上司に嫌味を言われるのか、顔も見たくないなあ)
五郎の足は、鉛のように重い足取りで会社に向かっていた。
まわりにも五郎と同じような表情をして歩いている人が大勢いた。
その中に派手な服装をした若い女がいた。
ぶつぶつと何か言っている。
その顔は、若い女の子の顔とは見えないほどの、疲れたような嫌味な顔をしていた。
女の体から、どす黒い雲のようなものがふわりふわりと出てきた。
それに気づく人はいない。
その雲のようなものは、漂いながら五郎の方に近づいて行き、五郎の体に吸い込まれていった。
あちらこちらの陰鬱な顔をした人々からもどす黒い雲が漂い出てきていた。
その雲は次第に集まり始め、大きくなっていった。
そして、その大きな塊となった雲は五郎の体の中へと一気に吸い込まれるように入っていった。
五郎の顔は、どんどん醜い嫌味なものになり、
暗くて深い淵の底のヘドロのような目に変化してきた。
顔つきも、どんどん険しく卑しくなってきた。
それに反して、どす黒い雲が体から出て行った者たちの表情は、すっきりとしたきれいな顔となり、はつらつと歩き始めている。
五郎は、だんだんとすべてのことが嫌になってきていた。
まわりにいる人たちをみると、怒りがこみ上げてきた。その存在だけで、無性に腹がたった。
(こいつら、ムカつく顔をしている、どいつもこいつも)
五郎は、まわりの人々を暗い淀んだ目でにらみつけ始めた。
そんな五郎に目を合わせる人はだれもいない。
その存在がないかのように人々は避けていく。
(こいつら、俺を馬鹿にしているのか)
横断歩道の青信号が点滅し始めた。
渡りきろうとした五郎の脇を五郎とは、反対側へと渡ろうとする女子高生の自転車が猛スピードで横断歩道に突っ込んでいった。
その女子高生のかばんが五郎のかばんにあたり、大きく跳ね上がった。
女子高生は、無言のままである。
  すぐに振り返った。文句を言いたい相手の姿は、すぐに人ごみの中に混じってしまい、どうすることもできない。
無性に腹がたった。
腹の中が熱くうごめき、体中の血が沸き立つのが自分でもわかった。
(こいつら、どいつもこいつも全員、殺してやる)
「うおおお」
空に向かって叫んでいた。
まわりの人々が驚いてみるが、そのまま通り過ぎて行く。
五郎は、強く決めた。
(殺してやる)
会社にいくのは、やめた。
(会社なんて、馬鹿らしい)
すぐに、包丁を買おうと決めた。
すごく切れ味のいいものを。
渋谷のどこに包丁が売ってるのかわからない。
五郎は、あちらこちらと探しまわったあげく、開店したばかりの東急ハンズに入った。
大型のナイフが載ったポスターが目に入った。
アウトドア用品コーナーへと走るようにして向かった。
気が急いてどうしようもなかった。
五郎本人も何に急いでいるのかわからなかったが、とにかく、急いで、刃物を手に入れたかった。
ナイフのショウケースの前についた。
たくさんのナイフがあり、どれが一番効果的に人を殺すことができるのか判断できずにいた。
ナイフを選びはじめると、汗が玉のように出てきた。
選ぶのもいらついてきて、どれでもよくなり、一番おおきなナイフに決めた。
一番、人を多く殺せそうだった。

ナイフをかばんに忍ばせて、街をうろついた。
どいつをはじめに刺し殺してやろうか、迷った。
一時間ほど、うろついていた。
ずいぶん歩いたので疲れ始めていた。
ハチ公前の信号待ちをしているとき、五郎の前に甲高い声で笑いながら携帯電話ではなしている女子高生が割り込むようにして入ってきた。
(決めた。こいつにしよう)
かばんの中に手を突っ込み、ナイフの柄を握り締めた。
タイミングをはかる。
信号が青になり、みなが歩き始めたとき、五郎はナイフを外に取り出し、女子高生の後ろにぴたりとくっついた。
五郎のかばんが女子高生のお尻に当たった。
女子高生は、痴漢でもみるような見下げるような表情で五郎をにらみつけた。
そのとき、五郎は、ナイフを女子高生の左わき腹から心臓めがけてつきあげた。
思ったほどの抵抗もなく、ナイフは、豆腐にでも差し込んだかのように、するりと柄まで入った。
女子高生と五郎だけが立ち止まっていた。
まわりの人々は、横断歩道を足早に過ぎ去ってゆく。
だれも気づいていない。
女子高生は、何か困ったような目をして五郎をみた。
純粋無垢な子供のような目だと五郎は思った。
そのまま崩れるように倒れていった。
ナイフも自然に抜けていた。
五郎はナイフを見てから、足元に倒れている女子高生を見た。
乾いた道路に黒っぽい血が広がり始めた。
赤い血も出てきた。
(血って、意外と粘りがあるんだなあ)
五郎は初めてみる大量の血を感心して見ていた。
(だれかに教えてあげようかなあ)
耳元で女の悲鳴が聞こえた。
頭が痛くなるほどの高音だ。
そのとき、五郎の体からどす黒いもやもやしたものが静かに出てきた。
天へと向かって流れていった。
だれもそれに気づいているものはいない。
五郎の意識が朦朧としてきた。
いきなり、後ろから突き飛ばされるように倒された。
背中の上にだれかが乗っかり、強い力で押さえつけているのがわかった。
(重いなあ。だれかこの重いものをどかしてくれないかなあ)
そのまま、意識がなくなった。

2008年6月14日土曜日

70 めっけもの

 池袋駅の地下通路で、柱に寄りかかり、行き交う人々を見ていた。
 ふと、気づくとずっと見ていたところ、行き交う人々の足元、床に茶色の財布が落ちているのが見えた。
 すぐにとりたかったが、人目があるので、様子を見ることにした。
 辺りにいる人を何気なく見ている風を装ってみたが、その財布に気づいているものは、いないようだ。あまり、ゆっくりしていると、誰かに取られてしまう。
 財布に近づき始めた。
 緊張する。財布の前まで来たところで、平気な風をしながら、いま、初めて、気づいた風をしながら、しゃがみ財布に手をかけた。
見ていたときよりも、厚みのある、ものだった。
 財布を手にし、落し物を拾った風に装いながら、交番を探している風に辺りをきょろきょろしてみた。
 そして、歩き出した。
なるべく自然に見えるように歩き出した。
 自分では、そうしたつもりだったが、そう見えていたのかは、わからない。 
数十メートルあるいて、地上に出た。
 交番には、行かず、街の人々の間にまぎれるようにしながら、財布を自分のカバンのなかにしまった。そのまま、あるき続けた。
 そして、小さな公園まで、あるいた。
その公園で、ベンチに腰掛、財布の中身を確かめた。二万三千円と小銭が入っていた。カード類など一切なく、だれのものだったかの持ち主とつながるようなものもなかった。
 おかねは、すべて、自分の財布に移した。 
うれしかった。だが、悪いことをしたという後ろめたさが心にどす黒く残った。
 財布は、捨てずに、カバンの中に入れておいた。 デザインが変わっていたので、気に入ったのだ。
このまま使うと持ち主にどこかで、きづかれかねないので、すぐに使う気には、なれなかった。まず、持ち主に会うことは、ないと分かっている。何十万分の一か何千万分の一かは、知らないが、ないだろうとは、思う。しかし、もしかしたらがある。
 持ち主に、気づかれたとき、そのときのことを考えると、いやだった。
 カバンの底のほうに入れた。
 そのうち、忘れたころに使おうと思っていた。
 そのまま、公園を出て、池袋の街にでた。
 ふところが暖かいので、寿司を食おうと、いきなれた回転寿司屋をめざした。

 回転寿司屋で腹いっぱい食べた。
 しばらく、腹ごなしに街をぶらついていた。
 いつしか、また、あの財布をひろった駅の地下街を歩いていた。 そして、拾ったところに差し掛かって、落ちていた場所を見てみると、そこには、また、財布が落ちていた。また、だれも、気づいていないようである。
 私は、また、そしらぬ風をよそおいながら、財布に近づくと、また、その財布を何気なく拾い上げた。そのまま、歩き続けた。
 やはり、緊張は、していた。でも、一回目よりは、落ち着いていた。慣れてきたのかもしれない。
 その財布を持ち、また、一回目と同じ公園に向かった。
 そこで、同じように財布の中身を調べてみた。二万三千円。一回目と同じ金額。
 面白いものだ。
 一日に、同じ場所で、二回も財布を拾い、しかも、中身も同じ金額と身分証明は、何一つない。まったく同じ。不思議なものであった。
 こんなこともあるものなのか。変な気持ちにもなったが、うれしかった。
一日で、合計で四万六千円の利益である。ただ、歩いているだけで。 その財布も個性的なデザインなので、やはり、捨てずにカバンの底のほうに入れた。
 そして、気分よく、街にでた。
 まだ、腹は、いっぱいなので、今度は、服を買うことにした。よく行く店に入った。
 安売りの店しかしらない。お金が、入ったとはいえ、高い服を買おうと考えることが、なかった。
 そういう、発想には、ならないらしい。
 高い店の敷居は高い。やはり、行きなれた庶民の店である。
 シンプルなデザインのシンプルな色のものを選んで、買った。派手なものを、着る勇気がないのだろう。
 店を出ると、なぜか、帰りたくなってきた。満足したからかもしれない。
 駅へと向かった。
 あの地下通路を通った。帰り道となる地下通路。
 やはり、財布の落ちていたところが、気になった。なんの根拠もないのだが、また、落ちているのかもしれないと思っていた。
 行ってみると、また、あった。
 おかしい。
 三度も、続くはずがない。なにか、悪いことにはめられたのかもしれないと思い始めていた。心臓が、変な動きをしているような気がしていた。
 財布の中身が同じ二万三千円だったら、確実にはめられている。 確認しなければ、ならない。
 私は、駆け寄るようにその財布に近づき、財布の中身を見た。やはり、二万三千円。まったく同じ。
 私は、嵌められている。確信した。
 だれかが、ここで、私がこうしているのを見ている。私を監視していることになる。
 私は、辺りのどこかにいるであろう監視のものと目が合うのが怖くて、財布から視線をはずすことができずに、財布に視線をむけたままの状態で固まったように、していた。考えていた。この状況をどうクリアしていくか。
 決まった。
 いきなり、走り出した。全速力で走った。人にぶつかりながらも、走った。
 駅の外に出て、街に紛れ込もうと。
 私は、他のことは何も考えられなかった。
 誰かが、私は、追いかけている、それから、のがれなければならない。
 走りに走った。
 駅を出てからも、走ることをやめずに、走り続けた。路地から路地へと街をぬうように走り続けた。
 すぐ、後ろに恐ろしい者が居るような気がして、後ろを見ることはしなかった。
 どのくらい、走り続けたのか。苦しくて、苦しくて、身体中がジンジンと変な感覚がしてきたところで、走ることをやめた。もう、足が動かない。
 後ろを振り返ってみた。それらしい人は、いなかった。
 それからは、ゆっくりと駅からなお遠ざかるように、歩いた。
 自動販売機で、スポーツドリンクを買い、飲みながら、歩き続けた。
 池袋駅から、三つ目ぐらいの駅で電車に乗った。
早く、自分の家に帰りたかった

 やっと、アパートにたどり着いた。
 散らかり放題の部屋の中の、万年床の上に大の字に身体を伸ばして、横たわった。すごく疲れていた。
 すぐに、深い眠りに入っていった。
 目が覚めたのは、窓から入ってくる光が、まだ、薄暗い、朝方のことだった。最初に、頭の中に浮かんできたことは、昨夜の財布のことだった。
 すぐに、カバンの中にまだ財布がはいったままであることを思い出した。
 処分しようと考えて、カバンを開けてみたが、
中に財布が見当たらない。底のほうにいれたとはいえ、それほど大きなカバンでない。すぐに見つかるはずだがない。二つ入れたはずの財布が、二つともない。
 なにか嫌な気分になってきた。あるはずのものがないということは、なにかが起きたということ。
 アパートにたどり着くまで、自分の身から離していないカバンの中にないということは、盗まれているわけではない。落とすことも考えられない。カバンの底に入れていた財布だけが、それも、二つとも、落とすことはありえない。
 他のものは、何ひとつ、なくなっていない。
 残るは、私が、寝ている間に、誰かがこの部屋に入ってきて、盗ったか。
 財布が、なぜだかは、わからないが消えたということだけである。
どちらにしろ、気味悪い。
 飛びはねるように、動いた。入り口のドアの鍵を確認した。鍵は掛かっている。チェーンも掛かっている。
 起こりえる残ったことは、カバンから二つの財布が消えたということになった。
 このことをどう理解していいのかわからなかった。
 もしやと思い、自分の財布に入れた四万六千円の使った残りのお金を確かめた。やはり、ない。いつもの、自分のさびしい財布の中身だけである。
 なにか呆けたように、座り込んでしまった。体中から力が、抜けたようになった。拾ったお金がなくなったからではない。
 昨日のこと、財布を拾ったことが夢であったのではないかと思い始めていた。
 携帯の日付を見てみた。昨日となる日付が今日となっていた。
 しかし、夢ではないような気もしていた。

2008年5月22日木曜日

69 虫眼鏡の女

大きな樹木が多くある公園でその女にあった。
公園の端にあるお堂の脇の地面に這いつくばるようにして、
大きな虫眼鏡で小さなコケを熱心に観ていた。
両膝を湿った土につけている。
ズボンは、汚れている。
女は、ぜんぜん気にしていないようである。
私が、その女の後ろでその珍しい行動をしばらく見ていると、
私に気づいて、話しかけてきた。
「コケを観るのは、楽しいですよ。あなたもどうですか?」
満面の笑みで大きな虫眼鏡を私に、差し出した。
その笑みが、楽しさを証明しているように思えた私は、
しゃがんで、虫眼鏡を通して、コケを観てみた。
「 森が存在しているでしょ?」
女の声は、自分の興味あるものに、興味を持つ人間が
現れたのが、うれしいのかのような弾んだ声だった。
そのとおりだった。
そこには、私が知っているコケのいつもの風景とは、違うものがあった。
都会に暮らしている人々は、自然が恋しいといっているが、
このコケ観賞をすることを勧めたくなるほどのものが、虫眼鏡の
奥には存在していた。
小さなコケが狭いところに、身を寄せるようにしている生きているだけなのだが
虫眼鏡を通すことで、そこは、深い山となるのだった。
コケの一つ一つが、森の中の大木に見えてくるのだ。
小さなコケの形がこれまで見たことのない新種の植物のように見えてきていた。
文明が始まる前の恐竜の時代の植物群のようにも見えた。
私はいつしか腹ばいになって夢中で虫眼鏡の奥に見えるコケの世界に入り込んでいた。
目の位置を地面に近づけるほどに、コケの世界がリアルに感じることができた。
大きな樹木が立ち並ぶ古代の自然の中にいる。
樹木の間をぬうように首長竜が幾トンもある身体をゆらしながら、
歩いているのが見えているような気がしていた。
「すごい!」
思わず、感嘆の言葉が私の口から出ていた。
私は、女にこの感激を伝えようと振り向いた。
そこには、女はいなかった。
目の前にはうっそうと茂った森があるだけだった。
私がたった今まで虫眼鏡で観ていた世界が目の前に現実の世界としてあった。
私は、コケの森の中にいた。
小さくなっていた。
自分の身にとんでもないことが起こっている。
心臓がありえないほどの鼓動を打ち鳴らしていた。
体中を血液が駆け回っていた。
上を仰ぎ見るとそこには、大きな樹木。
そして、その樹木のもっと上、そこには、空を覆い隠すほどの
大きな虫眼鏡を覗き込んでいる大きな目。
女の目があった。
ギョロギョロと気味悪く動く目玉。
私を観ているその目は、薄気味悪く笑っていた。

2008年5月16日金曜日

68 そこに存在しているもの

山の中をさまよい続けた。
自分がどこにいるのか見当がつかなくなって、数時間がたっている。
もう、日が暮れてしまった。
なんどもキャンプに来ている山だったのだが、気づいたら、
見知らぬ風景の中にいた。
最初は、簡単に戻れると考えて、おおよその方角を目指して、進んでいたのがいけなかった。
進むにつれて、不安が次第に深くなっていった。
行けども行けども、見慣れた風景には、たどり着くことができなかった。
一度は、来た道を引き返したりもしたが、余計に自分の向かっている方角が把握しきれなくなってしまった。
いつも、自分ひとりの行動をするので、私がここにいることもだれもしっていない。
助けにだれかがくることもない。
そのことが頭の片隅をよぎると、恐怖が体中を駆け巡った。
死というものを日常身近にあるものと考えてない私は、すぐ近くに近寄ってきている死を
感じていた。
立ち止まると、静かな山の中で独りを感じてしまい、死を意識してしまうので、立ち止まることをしなかった。
この休憩をせずに歩きつづけたものが、悪かった。
休憩できなかったのは、身体でけではなかった。
特に、頭が休憩できていなかった。
その頭で、解決策を考えているのだから、いい案が見つかるはずがなかった。
私は、どんどん山の奥のほうへ奥のほうへと立ち止まることをせずに、突き進んでしまった。
その結果が、日が暮れた山の中で、一人、不安を抱えた状態で闇の中で、身を縮めて、日が昇るのを待ちに待っている。
永遠のような気がしてくる闇。
日常の中では、山は静かなものだと感じていたのだが、闇の中にある山の中で一人いると、山はさまざまな音で、満ちていた。
夜の山は、静かではなかった。
風の音、葉の揺らぐ音、聞いたことのない鳥のような鳴き声、何かが近くにいるような気配、枯れ枝らしきものが落ちる音、私の五感は、フル稼働していた。
稼動しすぎたのか、私は、見てはいけないものをみてしまったのかもしれない。
そこに存在してはいけないものが、私の目の前に存在していた。
宇宙。
果てのない広大な宇宙が、私の目の前に延々と広がっていた。
鼓動している宇宙、生きている宇宙、想像を絶する壮大な力が、そこに内在していることを知った。

2008年5月9日金曜日

67 二つの太陽

太陽が二つある。
なのに、だれもそのことを口にしない。
見えてないのだろうか。
太陽が二つあることにきづいたのは、昨日のことである。
駅へと向かう出勤途中で、空を仰ぎ見たときに、気づいた。
おんなじ大きさの太陽が並んで、輝いていた。
駅に着いた。
二つの太陽。
大騒ぎをしていそうなものだが、何事もなく、いつものように、駅構内は平然としている。
何か変だ。
携帯でテレビを見てみた。
そこでは、いつも見慣れた人が、朝のニュースを読み上げていた。
いつものように、ただ、ニュースを放送していた。
太陽が二つ。
こんな大きなことが起きているのに、世間では、何も起きていない。
私にしか見えていないのか?
幻想では、なく、現にそこに太陽は、二つ存在していた。
プラットホームで隣りで新聞を呼んでいるサラリーマンらしき男に、尋ねてみた。
「今日の太陽、何か変ですよね。」
男は、太陽を見た。
まぶしいはずなのだが、二、三秒見つめていた。
「いや、いつもの太陽だよ。」
しようもないこと、聞くんじゃないよ、というような雰囲気を感じさせながら、その男は、再び、新聞に眼を戻した。
やはり、私しか、あの太陽は、見えていないようだ。
これは、どういうことだろうか。
私にしか、見ることができない太陽。
あるはずのない太陽が、もう一つ、隣で輝いている。
どう解釈したらよいのだろうか。
大勢の人が、太陽の変化に気づかないということは、太陽には、何も問題がないのだろうか。
私だけが、おかしいのだろうか。
私の頭が変になったのだろうか。
その確率のほうが、高いように思う。
しかし、この太陽は、どんなに見直しても、ふたつある。
私は、自分の頭がおかしくなっていないのを認識している。
では、私以外の人間すべての頭がおかしくなったのだろうか。
そんなことが、ありえるはずがない。
それでは、どういうことか。
私の頭でもなく、他の人々の頭でもなく、では、問題は、どこにあるのだろうか。
問題ではなく、何かが起ころうとしているのだろうか。
何かを私に気づかせようとしているのか。
でも、私だけに気づかせるために、太陽が余分に出現するとも考えられない。
では、何か。
やはり、私の頭がおかしくなっていると考えるのが、妥当な見方であろう。
ということは、では、なぜ、他の人たち、私の周りにいる人たちは、私の異常に気づかないのだろうか。
私は、異常な行動をしているはずである。
なにしろ、太陽が二つ見えているのだから。
それとも、太陽が二つ見える意外は、私の身体に問題はないのだろうか。
それで、他の人々は、私にいつものように接しているのだろうか。
それとも、これは、夢なのかもしれない。
しかし、実にリアルにできている夢である。
夢の中にいるので、変なところに気づきづらいだけなのかもしれない。
それとも、私は、死んでいるのか。
突然の死を迎えた人は、自分が死んでいることに気づかずにいつものように生活をしている人がいると聞いたことがあったが、そうなのか。
私が、そのパターンなのか。
ためしに、壁が通り抜けることが、できるか、試してみた。
だめだった。
痛い思いをしただけだった。
壁を通り抜けできないわけだから、私は、死んでいない。
私は、生きている。
結論がでないままに、今を迎えている。
いま、私は、自殺を考えている。
たいした理由などないのだが、自殺をしようとしている。
ありきたりな自殺をしようと高いビルの屋上にいる。
あと、数歩前に足を進めるだけで、希望の自殺ができるわけであるが、私は、すぐには、足を進めることをしない。
死ぬ前のこの短い時間が、なんだか心地よい気分になってきていた。
死ぬのだから、何も必要なくなってしまい、ほしいものもない。
未来への不安もない。
いま、この一瞬だけが、すべての世界にいま、私は、いる。
なかなかいいものだ。
いまのこの一瞬。
いまだけを生きるのは、いいのかも知れない。
人間が苦しむのは、未来を考えるからなのでは、なかろうか。
今だけ、この一瞬だけを生きるといいものに、なるのかもしれない。
しかし、ほんとの一瞬だけを生きなければ、時間がたてば、未来を考えてしまう。
この一瞬だけ。
この一瞬を生きるためには、この一瞬の後は、必ずの死がなければならない。
一瞬を知ったので、私は、死ぬことにした。
足を一歩進めた。
恐怖は、あったが意外と簡単だった。
私の身体が、落ちていく。
意識が遠のいていく。
そして、意識がなくなった。
そして、目覚めた。
やはり、私は、夢を見ていた。
私は、いつものベットで、目覚めた。
カーテン越しの太陽の強い光りが、部屋の中を明るく照らし出している。
一気にカーテンを引き開いた。
空には、まぶしい太陽が二つあった。
まだ、夢のなかなのか?

2008年4月30日水曜日

66 男は、そこにいた

池袋駅の地下通路。
中年の男が、行き交う人々に向かって喋っていた。
「北から茶碗が落ちてくる」
「・・・・・・・・」
「牛は、足が痛いんだ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ノートを貸してくれない?」
「・・・・」
一瞬、立ち止まり、男が何を話しているのか、聞こうとする人もいるが、その内容が支離滅裂なことに気づき、精神に問題がある人とは、かかわりを持たないようにと、すぐに忙しそうに立ち去ってしまう。
そこに、男が存在していないかのように、人々は、通りすぎていく。
男は、なおも言葉を発していた。
「あの花、僕が植えたんだよ。きれいだよ。」
「・・・・・・・・・・・」
「車の中、だだだだだだ。」
「・・・・・・」
男は、視線をあちらこちらに向けながら、足は、何かのリズムをとっているように大きく、上げたり、下げたりと繰り返し始めた。
次第に、男は喋ることはしなくなり、身体を動かすことに意識を集中しているようだった。
足を踏み鳴らし、天井を見、くるくると小さく円を描くように、歩き始めた。
前方を見ずに、足元だけを食い入るように見ている。
だれも、男を見ようとしない。
通り過ぎていく人々。
男は、周り続けている。
ふっと、男の姿が消えた。
その場から、男が突然、消えて、なくなった。
しかし、だれも気づいていない。
でも、私は、見ていた。
男は、消える瞬間、私の目を見た。
射抜くような鋭い目。
あの男は、キチガイじゃない。

2008年4月18日金曜日

62 白カラスの義   

 

その小さな公園は、早朝の霧雨の中にまぎれるようにあった。
麗(レイ)は、日課の散歩コースの中に、この公園を入れていた。
勝手にカラス公園と名づけている。
初めてこの公園に訪れたときに、一匹のカラスがサッカーボールの上に乗って遊んでいたのを見たからであった。
正式な名前は、あるのだろうが、麗はこの名前が気にいっていた。
カラスが、水のみ場でレバー蛇口式のレバーを動かして、水を飲んでいるのを見たこともあった。
その動きはとてもコミカルで、心がもぞもぞするような楽しいものだった。
サッカーボールで遊んでいたカラスと同じカラスだと麗は、思っていた。
ここのカラスは、何も悪さをすることもなく、賢くてかわいいカラスだと思っていた。
何十羽と集まることもなく、いつも1、2羽ぐらいで公園内をチョコチョコと歩き回っているのをよく見ていた。
いつもなら、雨の日の散歩はやめるのだが、その日は、しとしとと降り続く五月雨の中、なぜか、早起きして散歩に出た。
そして、カラス公園にさしかかった時、公園のあまり手入れのされてない茂みのような植え込みの中で、ガサゴソと音を立てているものがいることにに気づいた。
普段、聞きなれている音とは、異なる音に引き付けられるように、その音のほうへと近づいていくと、そこには、一羽のカラスが茂みから出られずに、羽をばたつかせてもがいていた。
引っかかってしまうほどのところには、見えなかったが、さらに、近づいてみてみると、どういうわけか茂みの中に、つり用のテグスが捨てられていたようで、そのテグスに足が絡まってしまったようであった。
麗が、助けようと静かに近づいてゆくと、カラスは、逃げようと余計に羽をばたつかせてしまい、羽が茂みの枝に激しくぶつかり、痛々しかった。
傷が深くならないように急がねばと、麗は、一気にカラスに近づき、上から押さえつけるようにして、捕らえた。
カラスは、悲しいようなくぐもった声を出しながらも、逃げようと身体を捩じらせていた。
麗は、そんなカラスをみて、余計にかわいそうになり、一刻もはやく、開放してやろうと、カラスの足に絡みついたテグスにあせりながら格闘した。
程なくして、テグスがカラスから完全に取り除かれた。
取り除いたテグスは、ずいぶんまとまったものだった。
もしかしたら、悪意のある人の仕業かもしれないと頭の端のほうに浮かんできた。
すべてのテグスが外れたのが分かったのか、少しでも早く人間の手から離れようと一段と激しく暴れだしたカラスに
「これは、貸しな、いつか返してもらうぞ」
アメリカ映画でよくきくような台詞を、伊達もの風に言ってみた。
麗は、カラスにしたこととはいえ、良いことをしたことに対して、照れのようなものがあった。
カラスを押さえつけていた手の力を緩めると、するりと手から抜け出し、駆け出すようにして、力強く羽ばたき、高く遠くへと飛んでいった。
すぐにその姿は見えなくなり、何かを期待するわけではないが、あっけないものだった。
見えなくなったほうをしばらく見ていると、ふと何かを感じて、辺りを見渡すと、まわりの木々に、いつの間にか、いつもはいない5,6羽のカラスが低い枝につかまり、麗を静かに見ていた。
仲間が心配だったのだろうと、麗は、心配ないという意味をこめて、合図をするように片手を挙げたのだが、真意は伝わらなかったようで、同時に、カラス全部が、声を上げながら飛び立ってしまった。
脅かしてしまったと、麗は苦笑いをしながら、散歩を続けた。
麗が公園をでていくと、だれもいなくなった早朝の公園は、動くものが何ひとつないひっそりとした寂しいものになった。
しとしとと降り続ける雨がいっそうそうしていた。



カラスを助けてから幾日かが過ぎたある日。
いつものようにいつもどおりの散歩コースを日々変わる景色を感じながら、額に汗をにじませながら歩いていた。
いつもの公園に入っていくと、麗が散歩の途中で休憩する場所と決めている長ベンチに、全身を白一色のスーツに身を包んだ若い男が、背筋をスッと伸ばして腰掛けていた。
早朝の公園には、似つかわしくなく、近寄りがたい違和感を感じさせていた。
麗はその男の姿をみて、このベンチでの休憩はあきらめ、その男がいるベンチの後ろを行きすぎようとしたとき、その男が、麗の前に立ちはだかるように飛び出してきた。
「キャッ」
いきなりの予想外の男の動きに麗は、小さな声をもらし、腰からくずれるように地面にしりもちをついた。
目を固くつぶり、身体をちぢ込ませた。
男に何かをされると思った。
が、何もおきないのでゆっくり目を開けていくと、まず、目に入ってきたのが、磨かれた白い皮の靴で、次に、折り目がきちんと出ている白いスーツのパンツ、そして、白いスーツの上着、そして、麗を見るのでは、なく、なぜか正面を見たままでいる若い男の顔だった。
まじめそうな男の顔つきに麗は、自分に危害を加えようとしている人間でないと判断し、
「なんですか。危ないじゃないですか。」
立ち上がりながら、男を責めるような口調になった。
「すみません。脅かすつもりは、なかったんですが」
男の声は、こころなしか震えているように麗には、聞こえていた。
男が、すごく緊張しているのが、麗にも伝わってきた。
自分に対して緊張している男の態度は、麗にとっては、自分が大切に扱われているような、何か優位に立っているような気分にさせてくれた。
男の顔をゆっくりと観察する余裕も出てきていた。
落ち着いて見てみると若い女の子たちが喜びそうないい顔していた。
イケメンである。
だが、イケメンは、麗の好みではなかった。
イケメンは、うすっぺらい軽薄な人間としか見えなかった。
好みは、ごつくて、人生の険しい道のりを歩いてきた、くたびれたスーツを着ているようなおじさんが、タイプだった。
「私は、カラスです。あなたに助けられたカラスです。貸しを返しにきました。」
いきなりである。
変な抑揚で話す男は、麗の返す言葉を待っていた。
早朝の公園に場違いな白いスーツ姿で現われ、おかしなことを言っている男。
係わり合いにならないほうがよいと判断した麗は、すぐ、立ち去ろうとした。
そんな麗の表情に自分が信じてもらえてないことを知った男は、
「うそでは、ありません。真実です。信じてください。」
しっかりとしたものごとを判断する能力のある声に変わった。
すくなくとも、異常者では、ない声の音質だった。
話しを聞いてみてもいいかもしれないと思った。
しかし、男は、ニコリともせず、引きつるような表情でそこにいた。
声は、信用できそうなのだが、表情が信用できない。
「わたし、25よ。そんな話し、信じると思うの?」
やさしく対応するときではない感じた麗は、多少きつい言い方をとった。
男は、そんな麗の態度にたじろぎ、
「ほんとうなんです。私は、あのときのカラスです。貸しは、返さないといけないことです。カラスでも人間でも、同じです。だから、こうして、来たんです。あなたの困りごとを教えてください。それを解決します。」
早口で、いっきにしゃべった。
麗に信じてもらおうとしていることは、なんとなく、感じることはできた。
しかし、内容がまともでない。
「じゃぁ、あのときのカラスだという証拠を見せて」
とまどうような困ったような表情をしながら、
「それは、いま、ここでは、お見せできません。」
男の言葉が終わると同時に麗は、何も言わず、歩き去り始めた。
男が、慌てて、麗の前に走り出て、
「分かりました。じゃぁ、しょうがないんで」
と、言いつつ周りを見、だれもいないのを確認すると、白いスーツを身につけたイケメンは、一瞬にして、黒いカラスになった。
ベンチの端にのっかり、麗のほうに向き、
「カァー」
と、一声、鳴いた。
すぐに、もとの男の姿に戻った。
ほんの一瞬のの出来事であった。
男は、辺りを見ている。
少し離れたところで、一人の小さな女の子が、こちらを見ていた。
驚いた表情で立ちすくんでいる。
いま、起きたことを見てしまったことは、確かだ。
男は、がっかりしたような表情で、ベンチに腰を落とすように腰掛けた。
麗も、目を大きくして男をみている。
「人間は、あまり知らないけれど、こんなこといっぱいあるんですよ。」
男は、麗に背中を向けたままで
「信じてくれました?」
「信じた、うん」
思考も止まりそうになっている麗は、身体に力が入らず、腰がふわふわしてしまっていた。
男のとなりによろめくようにゆっくりと腰掛けた。
「ほんとに、あるんだね。」
「そうです。あるんです。」
男は、麗の状態に気づき、麗の背中をさすりながら、
「やっぱり、カラスだということを言わなければ、よかった。」
男は、後悔しているようだった。
「あの女の子も見たよなぁ。脅かしちゃったなぁ。」
肩を落としている男の姿をみて、麗は、なんだか親しみを感じ始めていた。
麗は、男が現れた理由を思い出した。
「あのとき、私が、貸しって、言ったから、ここにきたんでしょ! でも、あれ、冗談だから、いいのよ。」
「でも、こうして私が、ここにきた以上、貸しを返さない限りは、私も、帰るわけには、いきません。人間に、貸しをしたままだと、カラス仲間にも、顔が立ちません。どうか、何か、私にさせてください。なんでもいいんです。」
「そんなこと言われても、困っていることないんだよねぇ」
麗は、男の思いをかなえてやりたいと、うなりながら、しばらく考えていたが、やはり、出てこなかった。
「やっぱり、ないね。だから、いいよ、忘れて」
「そうはいきません。思いついたら教えてください。私は、このままで、いるわけにもいかないので、カラスに戻りますが、私は、いつでも、傍で、まっていますから。」
そういうと、あっという間にカラスの姿に変わり、ベンチの後ろに立っている大きなイチョウの木の枝にとまって、麗を静かに見下ろしていた。
その目は、早く、早くと催促しているようにみえた。
しばらくは、その場で考えていたが、カラスの目が気になりだし、いたたまれなくなり、
「明日、来るから、それまで、考えておくから」
麗は、そういうと公園を逃げるように出てきた。
貸しの戻しの押し売りにも困ったものだと麗は、考えていたが、あのカラスの気持ちも分かる気がしていた。



次の日、麗は、カラスにしてもらうことがみつからないので、公園に行きづらくなった。
約束を破ることになるのは嫌だったが、あのカラスががっかりするのを見るのつらいので、公園にいくのは、やめた。
麗は、自分がとても悪いことをしているように感じ、ベッドにはいり、困りごとを明日までには見つけて、あのカラスを喜ばそうと思っていた。
目を閉じて、気を落ち着け、考えてた。
しかし、考えても、考えても、ため息がでるばかりだった。
次第に、麗の意気込みはあせりのようなものになってしまい、悪循環となり、よけいに考えることができなくなってきていた。
そうこうしているうちに、とうとう、一日が過ぎ、朝になってしまった。
二日もカラスを待たすわけにもいかず、困りごとがみつからぬまま、公園に向かった。
青年は、やはり白いスーツ姿で、背筋を伸ばして長ベンチに腰掛けて待っていた。
麗が、現れると跳びはねらんばかりに喜んだ。
約束を破ったことには、少しも触れずに、来てくれたことを喜んでいた。
今日も来ないかもしれないと思っていたらしい。
麗は、青年に、してほしいことは見つからなかったことを告げた。
とても、申し訳なさそうにしている麗を見た青年は、
「あなたの疲れた顔から、察すると、カラスとしての私の変なまじめさが、あなたを苦しめたようですね。申し訳ありません。」
青年は、深々と頭を下げ、ベンチに元気なく、腰掛け、
「これだから、我々、白カラスは、人間と仲良くなれないんだよなぁ。あまりにもまじめに固く、行動を考えるから、人間に嫌われるんだよなぁ。」
それを聞いていた麗は、疑問を持った。
カラスは、黒いものなのに、白カラスとは、何なのだろう。
この疑問は、困ったことの一つになるのでは、ないのか。
うれしくなって、カラスの青年の前に飛び出した。
「私、困ったことが出来た。どう、それを解決してくれる?
 これで、貸しがなくなるわよ。」
それを聞いた青年の顔色が一気に良くなった。
「はい、困りごとは、何ですか?」
「困りごとは、私たち人間の知らないことを教えてほしいということ。
それは、あなたが、さっき、しゃべった言葉で、白カラスと言ったけど、カラスは、黒しかいないはずだけど、どういうことなの?
これが、私の困りごと、知りたいけど、私たち人間は、知ることができないので、困りごとでしょ。」
麗は、一気にうれしそうに言った。
「一応、それも、困りごとですね、分かりました。
お答えします。」
麗に近づき、手を握り、
「あの、これから言うことは、だれにも話さないでください。一応、カラスのルールみたいなもので、人間には、カラスは、黒だけしか存在してないように見せておく必要があるものですから。」
麗は、うなずく。
カラスの青年がいうことには、カラスには、黒カラスと白カラスが存在していて、白カラスは、支配層みたいなもので、黒カラスが、労働者階級みたいなものということであり、さまざまなものに身体を変化させることができる力のあるのは、白カラスだけということである。
白カラスの状態でいると、美しいもの好きの人間に捉えられてしまうので、人間のイメージがよくない黒カラスにいつもは、化けているとのことである。
白カラスは、平常の日は、目立たないように黒い身体にしているが、カラスの中で何か問題が起きたとき、白カラスとなり、カラスたちをまとめているということである。
青年は、カラスの秘密などもたくさん話してくれた。
麗が、喜んでいると青年もまた喜んでいた。
そして、貸しが返せたと喜びながら、去っていった。
麗は、カラスの世界が、人間と同じ様なところもあり、ぜんぜん理解できないところがあることなど、いろいろなおもしろいこと知ることが出来たことをとても喜んでいた。
しかし、その記憶は、数時間後には、全て消えてなくなった。
白カラスの監視組織であるものたちが、カラスの世界の情報が人間にながれ過ぎることは良くないと判断し、麗の記憶を消したのである。
その後も麗は、いつものように、公園の散歩にきて、いつものベンチに腰掛け、いつものように休憩を取っていた。
そして、その麗の後ろのイチョウの木の枝には、いつも、一羽のカラスがいた。

2008年4月16日水曜日

61 男の秘密の仕事

女は仕事が終わり、家路に向かう路地をとぼとぼと歩いていた。
生活に疲れていた女は、ほとんど顔をあげることをせず、うつむいたままに足を無理やりに前に動かしていた。
何をしてもいいことがない毎日にほとほと、嫌になっていた。
毎日を忌み嫌って生きていた、そんな女の目の前に、財布が落ちていた。
厚みのある黒い皮の財布。
女の心は、弾んだ。
すぐには、手を出さずに、周りの人の目を気にしながら、だれも見ていないことを確認したところで、かがんで財布に手を伸ばした。
財布に手が、触れた瞬間に、その女は、猫になってしまった。
猫は、以前のことの記憶は、なにもない。
前から、記憶は、猫だった。
その後、その女は、行方不明者として、警察のリストにのることになった。
だれも、女が猫になっていると考えているものは、いない。
その財布は、あちこちに現れ、人々を別のものへと変えている。
犬になったものもいるし、路傍の小石になったものもいる。
触れるものを他のものへと変えてしまうその財布の持ち主は、初老の男である。
その男の正体を知っているのは、その男の家族だけである。
その男の家族は、代々、人を他のものへと変えることを仕事としている。
受け継ぐのは、長男ひとりと決められている。
その他の家族は、家を出るときに、記憶が消されている。
その男は、その仕事をやめることは、できない。
やめるときは、本人が、無限の地獄をさまよい続けることになるからである。
なぜ、こんな仕事があるのか、男本人も理解は、できてない。
それでも、男は、仕事をやりつづけている。

2008年4月9日水曜日

60 ある芸術家の日記 1

ある芸術家の日記

9月29日 土曜日 雨のち曇り

昨夜は飲みすぎた。
居酒屋で飲んだ後、心さびしいのか、もう少し、飲みたかったので、スナックに入った。
ニューホンディという名の店である。
この日で三度目。
そんなに楽しいところでない。
若い子がいるわけでもなく、私を一人の客として、扱ってくれている感じもうけないところである。
でも、他に行くところもないので、入り口のドアを開けた。
金曜日の午後9時ごろ、客が大勢いると考えていたが、予想どおりである、ボックスもカウンターも客で詰まっている。
入るのをやめようか、躊躇した。が、
「いらしゃいませ」
女性店員の大きな声で、仕方なく、一歩、店の中に足を踏み入れた。
ひとつ空けてもらったカウンターの席に着く。
フィリピン娘?  いや、おばちゃんだが笑顔がやさしい女が私に近づいてくる。
名前は、忘れたが、私と同じ年であることは、この店に一度目に来たときに聞いていた。
同じ年、同級生というだけで、今のわたしには、うれしい。
親近感を持っている。
騒々しい店内で、彼女は、笑顔で注文を聞いてくる。
居酒屋でずいぶん飲んできたので、何もほしくはなかったが、とりあえず、ビールをたのんだ。
「アサヒだよね」
彼女が聞いてくる。
私の好みを覚えてくれているだけで、私は、うれしい。
うなずく私。
彼女は、ビールを私に注いで、二言三言、しゃべると、すぐに、他の客のところへといき、はしゃいで、喋っている。
いつもの風景、空虚を感じながら、ビールを一口飲む。
味もしない。
目の前の高い位置にキープされている酒がズラリと並んでいる。
見るだけで、吐き気がしてくる。
その棚に、薄型のカラオケモニターが設置されている。
私は、そこに移っている映像に目をやっている。
文字が反転しながら、映像が変わっていくのをぼんやりとみている。
私は煙草をくゆらしながら、嫌な何かが私を押しつぶすように、包み込んでいるのがわかる。
普通のこういった店では、新たに客が入ってくると、店の女の子が、他の客を相手していても、新しい客につくのだが、私には、つかない。
嫌われているのだろう。
嫌な雰囲気を漂わせているからだと自分では、思っている。
それに、私は、他の客のように乱痴気騒ぎ的なことはしないで、普通にして、ジョークをいうわけでもないので、扱いづらいのだろう。
私は、まわりの乱痴気状態の中でポツンと一人、座っている。
まわりの客を見ることもしない。
見ても、アホまるだしの行動をしている人間を見ると、余計に嫌な気持ちになってしまう。
ただ、カラオケモニターを見ながら、煙草とビールを交互に飲みながら、時間を過ごしてゆく。
すぐに、帰ろうと思うのだが、立ち上がるのも面倒くさいので、そのままでいる。
そうしているうちに、2時間ほどして、店の女性に両手の人差し指で×しるしをつくってみせる。
お勘定する。
ビールを2、3本と小さなお通し、店にひとりでいて、3800円、高いものである。
私は、店を出る。
フラつく足でなんとか立っている。
真っ暗闇の空を見ながら、大きく深呼吸する。
『辛いなぁ』
つくづく思う。
人生とは、こんなものなのか。
何度もこころでいい続けてきた言葉を、また、繰り返している。


10月2日 火曜日 曇り

 南池袋公園に深夜0時過ぎに入った。
灯りが少ない暗い公園の中には、幾つかのベンチが見える。
あちらこちらにあるベンチでは幾組かのカップルが身体を寄せ合い囁きあっている。
ベンチ脇の暗闇にある植え込みの草や葉が動いている。
カップルたちがこれからしようとしていることを覗き見しようと潜んでいる者たちがいるのだろう。
盗撮をしようとしているものもいるのだろう。
カップルもそれを承知している。
どちらにしても、ここにいる者たちは普通の人たちとは、何かがことなる人たちである。
公園の端の方では、ホームレスたちがダンボールで今日の寝床を見事に完成させて眠っている。

私は、端にある朽ちかけたベンチに腰掛けた。
空を見あげる。
今夜も、暗闇だけである。
煙草に火をつけ、くゆらしながら眼を閉じていると、
激しい息遣いが、となりのベンチから流れてくる。
カップルが我慢できずに始めたようだ。
周りの植え込みがざわつき始める。
今日は、ギャラリーが多いようだ。
私は、公園のほぼ中央にある噴水池へと近づいてゆく。
コンクリートで固められ、廃墟のように存在している池。
夜、噴水は止められ、静かにしているのでよけいにそう感じられてくる。

私は、噴水池の端に腰掛ける。
手を池の中に沈ませる。
冷たい。
しばらくそのままにする。
冷たい水の心地よさが手を伝い、身体にじわりと浸み込んでくる。
数時間でも、こうしていたい。
だが、手を池から引き抜き、服に水分を移していく。
冷たくなった手で頬を包む。
手にはまだ、池の水の清いものが感じられた。
私は、財布から、一万円札を一枚取り出し、
沈黙している水面にふわりと浮かべる。
短くなった煙草を深く吸い込み、浮かぶお札に大きく吹きかける。
お札は、私のもとを離れていく。
ここで何をしようと、私に気を向けているものはいない。
煙草を踏み消し、そのまま、私は、漂うように公園をでていく。

公園の外には、現実の時間が待っていた。


10月10日 水曜日 曇り

立ち飲み屋の枡屋に入った。
夜8時ごろだった。
池袋の中で自分が、一番入りやすいところだ。
自分と同じ人間たちが集まっているところ。
浮浪者に近い人から係長くらいまでの人々しか来ないようなところ。
私は、勝手にこう決め付けている。
満杯状態の日が多いこの店、今日は、5、6人しかいなかった。
黄色い派手な短パン姿の男、ジョギング中の感じでもない緩みきった身体で、なんでそんな格好でいるのか。
店を去っていくスーツ姿の男に深々と頭を下げている。
私は、男の顔を見ることはしない。
眼の端でその男の行動を見ながら、私は、店の中央付近のカウンターに近づいていく。
新顔の店員が、この店には似つかわしくないバカ丁寧な調子で注文をとりにくる。
酒と柿ピーを頼む。
290円くらいだったような気がする。
酒と柿ピーを両手に持ち、カウンターと反対側にある壁についたカウンターの端にいく。
入り口に近いところ。
私の好きな定位置。
この位置は、目の前の壁が畳の一畳ほどの大きな鏡がすえつけられているし、そとの人々が行き交うのがよく見える。
そとの人々を肴に酒を飲み、鏡にうつる店内の人々をチラチラ見ながら煙草をふかし、と便利な位置である。
今日も、チビチビ飲みながら、外を行き交う人々を見ていた。
異様に短いスカートにハイヒールをカタカタ鳴らしながらだらしなく歩く若い女。
その姿には、もったいないきれいな白い足を眼で追っている男たち。
足早に過ぎていくリュックをしょったまじめそうな若い男。
手をつないでうれしそうに目を輝かせて、彼氏を見ながら歩いている少女。
いつもの街の風景。

そこに、いつもとは少し異なる空気の人間が現れた。
細く白い杖で足場を確かめながら、そろりそろりと歩を進める目の不自由な若い男。
この街に慣れていない。
道に出してある看板をコツコツたたき、停めてある数台の自転車をたたき確かめながら、歩を進めている。
自転車に本人のカバンか何かが当たり、数台の自転車は、ドミノ倒しとなる。
気づいた本人が自転車を起こそうとしている。
このごみごみしたところでは、しょうがない。
杖を下に置き、自転車を起こそうと難儀している。
立ち話をしていたガラの悪い二人の男が、それに気づいて近づいていく。
二人の男は、自転車を起こし、目の不自由な若い男の手に杖を持たした。
目の不自由な若い男は、二人の男になんどもお辞儀をして、駅のほうへと歩を進めていく。
二人の男は、また、煙草をふかしながら、何事もなかったように普通に話している。
ちょっと、心が緩んだ。
私は、グラスに残った酒をいっきに飲み干し、外に出た。
目の不自由な男を捜した。
すぐ先で、信号待ちをしていた。
こういう人間がこの池袋のような繁華街でどういう行動をするのか知りたくなった。
10メーターほど離れて、後を追った。
煙草をすいながら、その男を直接見ることはせずに、目の端でとらえながら、ふらふらと後を追った。
男は、信号を渡ると駅の東側へとつながる地下道のほうへと進み始めた。
帽子専門店の前を過ぎ、300円飲み屋を過ぎ、ゆっくりゆっくりと歩を進めている。
私は、信号を渡らずに、いる。
近づきすぎるのはよくない。
目が不自由でも人間の五感は、退化しているとしても、何かの違和感を感じて、こちらの存在を知りえるかも知れないからである。
男の身体を見ることもしない。
目の端でとらえているのは、男の身体の輪郭程度である。
私は、ゆっくりついていく。
地下道の近くまで、来た。
その男は、立ち止まった。
くるりと向きを変えると、今、来た道を戻り始めた。
はっきりとはしないが男は、わずかに笑っているように見えた。
ゆっくりゆっくりと戻っていく。
私が後を追い始めた信号まで戻ってきた。
立ち止まった。
また、向きを変え、地下道のほうへと向かう。
ゆっくりゆっくりと進んでいる。
私は、少し距離をとり、煙草に火をつけた。
その時、クラクションが鳴り響いた。
私の後方である。
そのほうに目をやると、赤信号で道路を横切っている女にクラクションが鳴らされていた。
目を男のほうに戻した。
いない。
辺りに目を配るが男はいない。
足の動きを少し速くして、男のいた辺りに近づいた。
右も左も前、後、どこにもいない。
私は、足を止めることはせずに、そのままの歩調で地下道に入っていった。
ここにも、姿はない。
あの男の歩くスピードなら、ここに入ったならば、ここで追いつけるはずであった。
地下道の反対側の出入り口まで、見渡すが男はいない。
見失った。

何か変な感じを受けた。
私は、歩き続けた。
周りと歩調を合わせながら。
地下道を抜け、駅の東側の街へと入っていった。
そのまま、一時間ほど、街をうろついた。
単なる尾行の失敗。
そう思う。
違うような気もする。

59 反応

遅くまでの残業を終え、電車に飛び乗ったのは最終の便だった。
座席につくと、すぐに寝入ってしまった。
アパートのある池袋駅のアナウンスで目覚め、カバンを両手に持ち、飛び降りた。
駅の西口をでたところで、カバンの手に伝わる感触がなにやら普段と違う気がして、カバンをみた。
自分のカバンでない。
色は、自分のと同じ黒色だが、形が全く違うものだった。
しかも、反対側の手には、いつもの自分のカバンをしっかりと持っている。
明らかに、私は、隣のひとのカバンを持ってきてしまったということをあらわしていた。
私は、すぐに、駅に引き返した。
駅の改札の駅員の傍までいってから、カバンを駅員に渡すのをやめた。
見も知らぬ他人のカバンの中身を見てみたいという衝動に駆られたのだ。
だれのカバンもたいして、変わりのないものであることは、承知であるが、見てはいけないものだからこそ、見てみたいという感覚に私にもある善の心は、片隅に押しやられていた。
急ぎ足で、駅を出ると、西口公園のベンチに腰掛けた。
まわりの人間が私を見ているような気がして、顔を上げて周りを見ることが出来ずに、うつむいていた。
しばらくすると、うつむいた姿勢のままでいることに身体がきつくなり、また、この姿勢のままでながくいることは、まわりの人々からすると、不審の体勢にみられるのではないかと、考えられてきた。
それで、なるべく、さりげなく見えるように、ゆっくりと、顔を上げ、まわりを見渡すと、夜、遅い時間だけれど大勢の人が、まだ、いたのだがだれ一人として、私を見ているものはいなかった。
私の考えすぎだった。
ここは、東京だ。
身近にいようと、となりの人に関心を示さないのが、東京である。
ましてや、故意にないにせよ、私が他人のカバンを持っていることを、この場にいる誰が、知っていようか。
私は、自分が疑心暗鬼になりすぎていたことを、自分で情けなくなった。
なんて、気が小さい人間だと。
それでも、私は、その見知らぬカバンを開けるときに、大事なものを探す風に装いながら、カバンを開いている自分がいることのに気づいていた。
どこまでも、臆病な人間である。
つくづく、思った。
開いてみたが、予想どおりである。
たいして、面白いものがあるわけでもなく、仕事のものであろう、幾枚かの書類と小さなメモのような走り書きなどが、しわくちゃに入っているだけだった。
ためしにと、メモの一つを開いてみると、そこに、書かれていることに、私は、胸を何かにつかまれてしまったかのような気持ちにさせられた。
そこには、“いま、このカバンをお持ちのあなた、私は、見ていますよ。ずっと。”
そう書かれていた。
ただ、それだけである。
どうせよ!でもなく、返せでもなく、見ているとだけある。
要求があるのではないことに、怖さがあった。
自分が今、だれかに、この場を見られているのかと思うと、急に身体が熱くなり、顔を上げることができなくなった。
自分を見ている人間と目が合ってしまいそうで怖かった。
私は、しばらく、そのまま、動かずにいた。
そして、この場を切り抜けるには、どうしたらよいのかを混乱している脳で考えていた。
答えが出た。
逃げることだった。
今なら、私がだれかもしらないはずである。
私は、いきなり、走り出した。
その見知らぬカバンは、その場にのこしたままである。
走りに走った。
夜の池袋を走り続けた。
人が少ないほうへと走り、誰もいない公園の中へと走りこんでいった。
後を追いかけてくるものはいない。
周りにも、だれもいない。
急に走るのをやめたら、身体中から、汗が噴出してきた。
公園の水道で、水を大量にかぶるように飲んだ。
すこし、落ち着いてきた。
暗い公園のベンチに座り、カバンのことを再び、思い出してみた。
ただのいたずらだったような気がしてきた。
見事にひっかかったというところだろう。
西口公園では、このカバンを仕掛けた人間がいたのかもしれない。
さぞ、私の行動をみて、楽しかっただろう。
そんなことを思いながら、煙草に火をつけ、大きく煙りを吸い込んだところで、
正面のベンチの横に、人が座っているのに気づいた。
暗闇に目が順応してきて、はじめて、気づいた。
この前にいる男は、私をずっと見ていたことになる。
煙草にむせながら、男を見た。
男は、私を見続けている。
この男は、もしかしたら、あのカバンに仕掛けた男をグルなのではないか。
そう思うと、すぐに、ベンチから腰をあげ、公園を出た。
道には、人がいなかった。
こうなると、人が少ないことに、恐怖を感じていた。
背後から、おそわれるのではないかと、背中の皮膚がぴりぴりと痛みをかんじるほど神経は過敏になっていた。
私の、歩く早さが、次第に早くなっていった。
指にさしていた煙草を投げ捨て、そして、遂には、走り出し始めた。
後ろを見ることをせずに、ただ、人が大勢いる繁華街へと走っていた。
人ごみに安心があると考えていた。
にぎやかなところへと、たどり着くと、居酒屋に、とびこむようにしてはいっていった。
何事もなかったように、カウンター席に座り、生ビールを注文して、一気に飲み干した。
何かが、ビールによって洗い流されたような、爽快な気分になってきた。
そのときになって気づいた。
私は、ビビリ過ぎていたと。
なんでもないことに私は、気をつかっていたと。
その日、私は、ひとりで、大いに飲んだ。
一人なのだが、自分の中にいる自分と大いに語り合っていた。
好きな手羽先を大量に食べながら。

2008年3月14日金曜日

58 その力

 静かな雨の夜の日だった。
さゆりは、仕事を終えて、疲れた足取りで一人暮らしのアパートに帰ってきた。
ところどころ塗りのはげた青い鉄のドアの鍵穴に鍵を差し込んでまわした。
ドアノブをまわすが、開かない。
鍵をまわしたのに、開かないのは、最初から鍵はかかってない状態に鍵をかけたことであることにすぐに気づいたさゆりは、自分の失敗に、自分であきれていた。
「危ないなぁ」
独り言をいいながら、もう一度、鍵をまわし、中に入り、玄関の明かりをつけ、濡れた黒い傘を壁にたてかけた。
ドアの鍵をかけ、チェーンをかけ、服の濡れをきにしながら部屋の中へと入っていった。
疲れきっていたさゆりは、部屋の灯りをつけることもせずに、玄関の灯りと外から入ってくる隣の街灯でぼんやりと見えるベットに近づくと、濡れた服をすばやく脱ぎすて、下着だけになり、ベッドに崩れ落ちるように横たわった。
すぐに、さゆりの寝息が、1DKの小さな部屋に満ちてきた。
ときおり、通りを行き交う車のタイヤが、雨で濡れたアスファルトの上を水をはねながら、遠くへと過ぎさっていく音が、アパートにも流れ込んできていた。
それから、数時間が過ぎ、雨も上がったころ、体に何もかけずに眠り込んでいたさゆりは、寒さを感じて、目を覚ました。
掛け布団の中に入りなおそうとした時、目の片隅に、いつもとは、異なる大きなも黒いかたまりが、部屋の片隅にあることに気づいた。
ぼんやりと見えるものが、徐々に人の形になってくると、さゆりの喉はひきつるように空気を吸いこみ、両手は、かけ布団をわしづかみにして、体は、硬直してしまった。
大きく見開かれた目は、その黒いかたまりを凝視し、ひきつったのどからは、かすれた声しかでてこなかった。
「だれ?」
「・・・・・」
「だれなの!」
その大きな黒いかたまりは、申し訳なさそうに、声をのどの奥から絞り出すように、
「すみません。」
と、太い声を出した。
弱気そうな声にさゆりは、すこし、勇気がでてきて、部屋の入り口にある明かりのスイッチまでかけより、たたくようにスイッチを入れた。
一気に明るい光りで満たされた部屋の片隅には、大きく見えていたかたまりのものはなく、意外と普通の体格の男が正座をして、首をたれていた。
それを見た、さゆりは、一段と勇気がでて、打ち下ろすような口調で
「あんた、だれよ!  ここで、何してんのよ!」
一気に攻めた。
怖さで、興奮しているさゆりだったが、自分の言葉があまりにも、ありふれていて、この状況では、意味をなさないもだと感じていた。
もっと、ましな言葉は、でてこないものかと自分をいらだった。
しかし、他の言葉など、何もでてこなかった。
突然、その男の体が前に動いた。
同時に、さゆりは、入り口のドアに駆け寄り、震える手で慌てながらチェーンをはずし、鍵を開けドアを開け、外にでた。
廊下を走り出したさゆりだったが、自分が下着姿であることに、気づいた。
恐怖があったが、下着姿を人に見られるのは、もっと、避けたかったさゆりは、とっさに、部屋の前へと引き返し、ドアの前でしゃがみこんでしまった。
中に入るわけにもいかず、下着姿のままで大声を出して人を呼びにいくわけにもいかず、どうすることもできず、涙が自然に出てきた。
泣きながらも。少しだけ開いているドアから中をのぞくと、男は、さゆりのほうに両手を前について土下座をしていた。
男が動いたのは、土下座しただけだった。
男は、頭を床にこすりつけながらも、
「すみません!すみません!すみません!」
その声は、次第に涙声になってきていた。
その姿を見て、男には、危害を加える気がないのかなと考え始めたとき、さゆりは勇気をだした。
「わかったから、そこの服をこっちへ、投げてぇ」
人が来ると困るので大声を出すこともできず、男にだけ声が届くようなかすれ声で言った。
男は、頭を床から上げようとしなかった。
「早く、服をこっちによこして!いそいで!」
さゆりの必死の声にようやく、男が顔を上げ、さゆりのほうをみた。
男は、さゆりが何を言っているのかを理解できない表情で涙でくしゃくしゃになっている顔で、ただ、さゆりを見ているだけだった。
さゆりが、体を上半身だけをドアの内側に押入れて、
「早く、服をこっちに投げて!お願い!」
ドアから男のほうに出ているその姿を見て、初めて、さゆりの状況を察した男は、部屋の中に放り投げてある服を手に取り、さゆりのほうへと近づいた。
「来ないで!見ないで!」
男は、服をもったまま、動かなくなってしまった。
顔はさゆりを見ないように、部屋の奥のほうへと向けられたままである。
「服をこっちに投げて!早く!」
「ハイー」
悲鳴のような声を上げながら男は、顔を動かさずに、さゆりのほうへ服を投げた。
さゆりの手まで届かなかった服をさゆりは、手を目いっぱいのばして、つかんで引き寄せた。
ドアを閉め、部屋の外で、すばやく、渡された服を着込んだ。
そのまま、外に駆け出した。
誰かに助けを求めようとしたが、遅い時間のせいか、通りには、だれも、いなかった。
落胆したさゆりの足に濡れた路面の冷たさが伝わってきて、初めて、自分が何もはいてないことに気づいた。
その冷たさを感じながら、だれか、現れるのを期待して待っているうちに、次第に、さゆりの心が落ち着いてきた。
あの男は、強姦しようとあそこにいたのでは、ないのかもしれないと考えはじめていた。
泣きながら土下座している姿は、強盗をしようとしているとも思えなくなってきていた。
警察を呼ぶ前に、確かめてみる気になっていた。
しかし、危ない人間かもしれないとの気持ちもあり、武器になるもをさがすと、さび付いたゴルフクラブがひとつあったので、それを両手で握り締めながら、部屋の前までやってきた。
そっとドアを小さく開けて、中をのぞくと、男は、力なく下を向いたままうなだれていた。
みるからに、すべてを後悔しているのが、わかった。
さゆりは、そんな男にドアから、顔だけを入れて、
「どうして、ここに入ってきたの?」
と厳しく尋ねた。
うつろな目をさゆりのほうへゆっくりと、向けると、
「気づいたら、ここに、いたんです。本当です。」
「うそ!そんなこと、あるわけないじゃない!」
「・・・・・ほんとうです。」
「ほんとうのことをいわないつもり!とぼけるつもり!」
「本当なんです。僕は、海で魚を採っていたんです。海に落ちたのは、覚えているんですけど、
 その後は、覚えていないんです。気づいたら、ここに、いたんです。
 そしたら、あなたが入ってきて、服を脱ぎ始めて、ベッドで眠り始めたのでびっくりしたんです。」
僕という言葉をつかったので、さゆりは、男の顔をよく確かめてみると、真っ黒に焼けた肌と作業服に気をとられていて、40、50歳くらいかと思っていたら、
20歳代の若い男だった。
30歳手前のさゆりは、自分のほうが年上だと思うと、勇気が出てきた。
ドアを開け、中に入ったさゆりは、男を見下ろすようにしながら、
「どうして、こんなことしたの。犯罪よ」
「本当に、気づいたら、ここに、いたんです。自分で入ってきたわけでは、ないんです。」
すがるように、言う男の言葉には、うそを感じられないのだが、ここに現にいる男が、そのことを否定していることを証明していた。
理性は、この男は、うそを言っていると判断し、
感覚では、この男は、本当のことをいっていると判断していた。
どちらのほうをとるか判断しかねていたとき、男が戸惑いの表情で天井を見上げながら、
「あっ、また、くる」
「えっ、何がくるの?」
と、男をみると、男の表情は、恐怖のようなゆがんだ顔になり、
さゆりのほうをみた。
その目は、悲しそうに助けを求めていた。
その目に、男が言っていたことは、真実であったことをさとったさゆりは、男の身にとんでもない何かが起きていることを感じた。
助けなければ、この若者は、死んでしまうかもしれない。
「何、何が起こっているの?」
男のそばに思わず、駆け寄った。
その瞬間、突然、黒くて巨大な手が天井から伸びてきて、その男の胴体ををわしづかみにし、上へと連れ去った。
その時、身動きできない男の怯えきった目が、さゆりの目を見た。
さゆりは、その目を見返してやるしかできなかった。
一瞬の出来事でしかなかった。
天井を仰ぎ見るさゆりの目には、いつもと変わらぬ天井が映っているいるだけだった。
何が、おきているのか理解できずに混乱しているさゆりの脳裏には、ただ、男の最後の目が何度も浮かんできていた。
そして、数日が流れた。
さゆりは、そのことをだれにも言うことができずにいた。
現実の生活に追われている人々に、さゆりが体験したことを理解できるとは、思えないからであった。
頭が変になったとしか、見てくれないだろう事は、容易にわかっていた。
さゆりは、後悔していた。
男が話していることが、本当のことだと信じないばかりに、男は、あの理解できないような大きな手にどこかに連れ去られてしまったと考えていた。
男のことを信じていれば、あの場所からすぐに非難して、助かっていたのではないのかと、自分を責め続けていた。
しかし、今となっては、どうすることもできないこともわかっていた。
それでも、あの男の最後の眼が忘れられず、何をしていても、思い出してしまっていた。
あの悲しい眼、すべてをあきらめてしまった眼、人間は、自分の運命が自分ではどうすることもできないと知り、もう死ぬことがわかると、あのような眼をしてしまうのだろうか。
あのような眼を見たのは、初めてだった。
さゆりは、あの日から、外に出歩くことがへり、部屋に閉じこもることが多くなっていた。
そんなある日、部屋のベッドに入って眠りに落ちかけていたさゆりのベッドの足元で、重いものが落ちるたような音と振動が、さゆりの身体に響いてきた。
その振動から硬いものでないことは、自然と気づいていた。
さゆりは、飛び起きた。
あの男が、戻ってきたのだと思った。
確信していた。
明かりをつけた部屋の中には、
期待どおりに、あの男がいた。
男は、足を抱えるようにして、びしょ濡れの身体を横たえていた。
ぴくりともしない。
からだを見回したが、怪我はしていないようだった。
でも、意識がないところをみると、身体の中を痛めているのかもしれないと思い、救急車を呼んだ。
部屋にこのまま置いておくと、また、あのばかデカイ手がでてきて、つれさらわれそうなので、病院のほうが、安全だろうとの配慮もあった。
病院で、調べてもらったら何も異常もなく、ただ、眠っているだけとのことだった。
ただ、体力をずいぶんと消耗しているようなので、しばらく、このまま眠らしておいたほうがよいとのことだった。
男は、点滴のチューブを腕に刺したまま、長い時間眠り続けた。
目を覚ましたとのは、夕闇が迫り始めたころだった。
男は、眼の前にいるさゆりに尋ねた。
ここは、どこなのかと。
男は、あの大きな手によって、あちらこちらとつれまわされたので、自分がどこに今、いるのかが、把握できずにいた。
さゆりは、病室の天井を見ながら、病院も危険ではないかと考えはじめていた。
すぐに、男を車にのせて、病院をはなれた。
あの大きな手が、また、現れるのを恐れていた。
男に手のことを尋ねたが、男は、何も覚えていないといっていた。
男の服は、あちらこちらが傷つき、破けていたりするところをみると、男の記憶にはなくても、男は、乱暴に扱われていたにちがいなかった。
はげしい扱われかたをしたせいで、男の記憶がないのかもしれなかった。
男の記憶には、さゆりの記憶もなかったが、男は、さゆりのことを悪い人間では、ないと判断しているようであった。
さゆりのなすがままにしていた。
さゆりは、男をどこにつれてゆけば安全なのか、あの大きな手から逃れられるのかを考えたが、いい答えが出てこなかった。
あの手は、また、男を捕まえにくるのか、それとも、こないかもしれない。
しかし、来るかもしれない、そして、こんどは永遠に男をどこかに連れて行ってしまうかもしれない。
こないかもしれないかれど、来ると仮定して、その時の対応を先に考えておくのがベストだろうと考えていた。
この男を、あの手に渡さないようにするには、あの手が、何なのかをはじめに、知る必要があった。
さゆりが知っているこの手の調べる方法は、ネット検索しか思いつかなかった。
人が多くいるネットカフェのほうが何かと安全だろうと男を連れて、わりと大き目のネットカフェに入った。
すぐに検索しはじめたが、なかなか真の答えのようなものは、なかなかみつからなかった。
しばらく、さゆりが検索していると、男のようすがおかしくなってきていた。
何かを言いたそうだった。
男に、そのことをいうと、なんでもないというばかりであった。
さゆりがしつこく何度もいうと、しぶしぶ話し始めた。
「君が、僕をあいつから、助けようとしているのは、うれしいがたぶん無理だと思う。君は、人間だが、あいつは、人間じゃない。何かは、わからないがこの世のものではないことは、確かだ。もしかしたら、あれが、悪魔というのかもしれない。死神かもしれない。だから、もう、何もしてくれなくていいよ。僕は、これは運命として、うけいれているから。」
悲しい目というより、悟ったような目になってきた男のその眼をジィーと見ていたさゆりは、
「悪魔だろうが、死神だろうが、あんたを苦しめるやつからは、私が守る。必ず。」
なぜ、これほどまでに、男を助けようとしているのか、自分でも、よく理解できていないのだが、同じ人間どうしだからかもしれない。
ほっておけない。やらなければならない。当然のことだと強く感じていた。
男が、あきらめていると分かるとよけいに、さゆりは、男を守ってやろういう気が強くなってきていた。
人間というものは、自分の近くに存在しているもの、同種のものについては、自分より多少弱いと思われるものは、徹底的にいじめ、殺してしまおうとするが、自分よりも完全に劣るものに関しては、反対に、守ろうとするもののようである。
さゆりも、そのようになってきていた。
さゆりは、完全に戦う気力をなくしているこの男を、ただ、守り抜きたかった。
だが、どのようにすれば、守ることができるのかは、皆目、分からずにいた。
人間ならば、どんなに大きな相手でも、対処する方法というものは、これまでの生きてきた人生のなかでの、経験の積み重ねから、ある程度の知識をもち合わせているので、なんとかできるのだが、人間ではない、えたいのしれないものとなると、どのように考えて、戦えばいいものなのか、作戦のたてようが、ないように思えていた。
さゆりは、男の様子をうかがいながら、ひたすらパソコンのキーボードをたたきつづけた。
検索しかないと思っていた。
人間でないものに、対しての対処方法をしっているものが、この世界には、いるのではないかと考えていた。
なぜなら、この男のようなことが、今回が、はじめてでは、ないはずだった。
人間の誕生から今の人間の世界までが、たとえ短いものでも長いものでも、同じようなことが、必ず、世界のどこかで、起こっているはずであると思っていた。
さゆりは、さまざまな言葉を検索窓に入力して、検索しつづけた。
悪魔、死神、天使、呪い、闇、腕、消えるなど、関連するかもしれないと思われる単語をさまざまに組み合わせていた。
関連のありそうなサイトは、幾つか見つけることができたのだが、どれも、遊びの域からは、でていないものばかりだった。
それでも、検索を数時間続けたとき、ヒットした。
そのサイトには、こう書かれていた。
あなたのすぐ、そばには、別の存在が存在している。
読み進めていくと、その存在とは、形を変えながら、この世の中を存在しつづけていたとのことだった。
その存在は、人間が存在するかぎり、その存在も生き続け、いわば、共存の存在であると書かれていた。
つまり、その存在は、消すことは、不可能であるが、その存在を静かにさせることは、可能であるとも、書かれていた。
その存在は、人間の心が弱まると存在を示し始める、そして、人間は、自身で意識を強くコントロールしさえすれば、その存在は、怖いものでは、ないと書かれていた。
つまり、強い意識があれば、その存在に勝てるということである。
弱い心の本人を他のものがカバーすることも可能であると、かかれていた。
さゆりは、すぐに、男にそのことを話した。
しかし、男は、そのことを理解しようとせず、ただ、そんなことがあるはずがない、というだけだった。
意識で、あの大きな不気味な手から、逃れることができるものではないと男のこれまでの人生の経験からでは、そのような答えがでてきたのかもしれない。
意識というものの、パワーを知っていないものには、理解しずらいことかもしれなかった。
さゆりは、その系統のことに関心があり、本をたくさん読んでいたので、すぐに、その意識の力を理解することが出来たのだった。
物体とは、意識の束の塊であることを、すでに、さゆりは、知っていた。
この世の中のことを、意識で動かすことができるということも知識としては、持っていたが、それを、現実に使う状況になろうとは、おもっていなかった。
さゆりは、男が信じてくれなくても、自分が信じて意識を動かせば、現実も動かすことができると、強く思っていた。
だから、すぐにでも、あの巨大な手が、現れるかもしれないこの状況では、すぐに、意識を集中しはじめた。
さゆりの頭のなかで、意識は、ある方向へと動き始めた。
その意識は、想像し始めていた。
あの巨大な黒い手が出てきたときに、さゆりの意識でつくりだした白い大きな手が出てきて、黒い手をポキリと追ってしまい、男とさゆりは、助かるというものだった。
さゆりは、その想像を幾度も意識を集中して、繰り返した。
想像が創造になることを微塵の疑いのこころもなく、想像できるように、呪文のように、お祈りするように、頭の中で、繰り返した。
男は、さゆりのそんな姿をみて、男もまた、さゆりと同じ想像を共有し、さゆりと手をつなぎ、繰り返し想像した。
呪文のように、繰り返していたふたりの想像が、数時間続けられていた時、二人がいるネットカフェの天井が、音もなくゆらゆらと揺らめき始めた。
その揺らめきは、次第に大きくなり、ネットカフェの床も各ブースの仕切りとなっているパーテーションも揺らめき始めた。
あちこちから、客たちのざわめきが出始めていた。
さゆりたちも、ざわめきのなか、ひたすら、意識を集中することに勤めていた。
すぐそばに、あの巨大な黒い手がちかづちていることは、気づいていたので、さらに、いっそう、意識を集中させていった。
次第に、ふたりは、まわりの騒ぎなども耳に入ってこないほどに、集中してきていた。
天井の蛍光灯がわれ、あちらこちらで、火花がはじけはじめていた。
その二人の真上の天井が大きく揺らぎ始めると、黒い大きな手がゆっくりと形をなし始めていた。
他の客たちには、何も感じないのか、そして、見えないのか全体が揺れ続ける中で、いつもと変わらぬ行動をしていた。
そんななか、黒い巨大な手は、完全な形になると、すぐに、さゆりたちに、襲いかかろうとした。
その時、さゆりたちのからだから、いきなり大きな白い手が飛び出した。
その白い手は天井から近づいていた黒い手に飛びつき、わしづかみにすると、黒い手の手首をあっけなく、へし折った。
その瞬間、ネットカフェ全体に大きな塊のような振動と落雷のような激しい音が鳴り響いた。
一瞬であった。
それで、すべてが終わったようであった。
さゆりは、終わったことを確信していた。
なぜなら、さゆりの意識は、これで、すべてを終わることを望んでいたからである。
すぐに、いつもの、風景が戻ってきた。
いつものように、大勢の客たちは、それぞれ思い思いの行動をしていた。
さゆりは、そんな客たちをみながら、男を外に連れ出した。
あの大きな黒い手がなくなったからだろうか、男の目には、強い光が宿ってきた。
人間の男らしい目の男である。
男は、記憶もはっきりとしてきた。
そして、男が語り始めた。
あの黒い手は、男が一人で漁をしていると、いきなり、海の中から現れ、男の身体を海の中にひきずりこんだということであった。
そこからは、どこかわからぬところをあちらこちらと引きずりまわされていたのである。
男は、圧倒的な黒い手の力に抵抗することが出来ず、ただ、もうじき、自分は、死んでしまうだろうと強く考えていたらしい。
男がさゆりにそのことを話しているとき、男は、突然、身体全体の関節が抜けたかのように、崩れ倒れていった。
さゆりは、すぐに、この倒れ方は尋常ではないことがわかり、男の首もとに手を添えて、脈をとると、すでに、反応はなくなっていた。
男が、死んだのは、あの大きな黒い手が原因ではない。
男自身の強い意識がこの結果をつくりだしたとさゆりは、気づいていた。

2008年3月8日土曜日

57 思い

その女性は、いつも、同じ時間に桃のジュースを買いに来た。
男は、いつも、その女性を見ていた。
その女性を見ると、元気がでて、気分が軽やかになり、幸せになれた。
いつしか、女性に恋をしていることに、気づいていた。
しかし、男は、女性と仲良くなることは、できないと知っていた。
なぜなら、男は、女性がいつもジュースを買う自動販売機そのものだったからである。
どういうわけか、鉄で作られている機械の自動販売機に男の心が存在していた。
心が存在というよりか、むしろ、自動販売機自体が、動くことは出来ないが、一つの生命体として、存在していた。
男の記憶には、以前の記憶があるわけでもなく、突然、自分というものに意識をもったときには、もう、自動販売機であった。
いつから、そこに、自動販売機として、存在しているのかも男自体もわかっていない。
ある日、突然として、男は、自分が自動販売機であり、そこに、24時間365日、存在しつづけていることに気づいた。
苦悩というものもなく、ただ、自分の目の前をさまざまな人が通り過ぎるのを見ていただけである。
人間というものを認識もしていた。
どこで、得た知識なのかも分からないが、男は、人間のことも、社会のことも、よく理解していた。
そして、自分がどういう存在なのかも理解していた。
感情というものが、ないものでもなく、鉄でできている自分の身体に傷をつけられると、痛みもあるし、ジュースの選択ボタンを手荒に押されると、怒りも感じていたが、どうすることもできないことも理解していた。
ただ、すこし、できることといえば、自分に対して乱暴をしたものが、再び、来たときは、ジュースを取り出し口に出す前に、缶を少しだが、へこまして形をいびつにしたり、選択したジュースでないものを出したりして、うっぷんを晴らしていた。
そのような日常を過ごしているときに、その女性が、現れた。
いつも、同じ時間に、同じところで、同じ姿勢で自動販売機によりかかるようにして、同じ桃のジュースをおいしそうに飲んでいた。
男は、女性が自分に寄りかかってくれているのが、とても、うれしかった。
女性は、通りを行き交う人々を見ながら、ゆっくり、飲んでいた。
なぜだか、男は、女性の心の中が見えていた。
女性の日常、苦しい出来事や悲しい思いが、男には、理解でき、女性にやすらぎを与えてやりたいといつも思っていた。
女性が、自分の悩みをだれにも相談できずに苦しんでいるのをみて、男もまた、女性の苦しみを共有するかのごとく、そのことで悲しんでいた。
その思いが、いつしか、女性に恋心をいだくようになっていた。
男は、神というものを信じてはいなかったが、女性の苦しみを少しでも軽く出来るものならばと、神に女性にやすらぎというものを与えてほしいと、祈り続けていた。
その日も、男は、女性が来る時間が近づいているので、そわそわして、待っていた。
遠くのほうに、女性がこちらに向かってくる姿が見えたとき、男の身体が、ゆらりと傾いた。
男である自動販売機が、数人の男たちの手によって、撤去され始めた。
自動販売機は、簡単に、トラックに載せられてしまい、トラックは、すぐに走り出し、
女性のすぐ横を通り過ぎていった。
男は、通りすぎてゆく女性の横顔をみながら、つぶやいた。
「死なないでくれ。」
ゆれるトラックの中で、男は、泣き苦しんでいた。
女性に何もしてあげることもできないことを、悲しんでいた。
そして、女性がこれからもひとり、苦しみつづけていくことを悲しんでいた。
その後、男は、解体工場に運ばれた。
巨大な圧縮プレスで、じわりじわりと押し潰され、次第に遠のく意識の中でも、最後まで、女性の幸せだけを祈り続けていた。

2008年2月29日金曜日

56 その男の秘密

寒さのきびしい夜のことだった。
やさしいだけの貧しい男が、公園のベンチに背中をまるめるようにカバン一つを脇において腰掛けていた。
その日、男は、住み込みの仕事をクビになってしまい、今日の眠るところもないし、これからのことを考えると、どうしていいものやらと、途方にくれていた。
貯金もないし、友人もないし、親類もいない。
男は、不安で、不安で、いっそ、死んでしまおうかとさえ、考えていた。
しかし、いざ、包丁を自分の胸に刺しこんでいる姿を想像しただけで、怖気づいてしまっていた。
公園から外に見える繁華街には、楽しそうに行き交う人々が見えるのだが、この男には、まるで違う世界にいるように見えていた。
男が、街のきらびやかな光をぼんやりした目で見ていると、足元に小さな子猫が、
「ミャー、ミャー、ミャー」
と途切れるような小さな声で鳴きながらすり寄ってきた。
男は、お腹のへこんだ子猫の頭を柔らかくなでてやりながら、
「なんで、俺は、いつもこんなんだ。いつも、一所懸命しているのに、まわりの人たちとうまくできない。やさしくしてあげるのに、いつも、最後には、やさしくしてあげた人間に、冷たい仕打ちをうける。何が、悪いんだ。いいことをするのに、帰ってくるのは、悪いことばかり、俺の人生は、一生、こうなのかな?」
と、子猫に助けを求めるように話しかけていた。
だれでもいいから助けてほしかった。
男は、大声あげて、泣きたかった。
「俺は、臆病なんだよな。人目を気にして、泣くことも出来ない。」
男は、子猫を持ち上げて、膝の上にのせて、抱き寄せた。
子猫は、逃げることもなく、静かに男にされるがままにしている。
しばらくして、男は、猫を抱いたままベンチに横になり、足を抱え込み、冷え切っている寒空の中、静かに眠りえと落ちていった。

深夜、男は、あまりにも寒すぎて、眼を開けた。
身体のあちこちを、ぎすぎすとうなりをあげるような痛みと疲労がおそってきた。
子猫の暖かさをもう一度、味わおうと手をやるが、子猫は、いつしか、いなくなっていた。
だが、手になにやら、紙の束のような変わった感触がつたわってきた。
それを手にとり、見てみると、一万円の束だった。
銀行の帯がついたままのものである。
それが、10束、あった。
一千万円である。
男は、慌てて、お金をカバンに押し込んだ。
だれかに、見られてはいないかとまわりを見回したが、男の他には、だれも、その公園にはいなかった。
ぼんやりしていた男の眼は、大きく、見開かれ、カバンを両手で抱きかかえて、座っていた。
「なんで、ここに、お金があるんだ?」
心の声が、意識せずに声となって、口からでていた。
男は、眼をきょろきょろと動かしながら、考えていた。
ヤバイ金かもしれないと、考えた。
すぐに、この場を立ち去らなければ、持ち主が、ここに戻ってくるかもしれないと、気づくと、カバンを抱きかかえたまま、公園から走り出た。
すこしでも、遠くへとはなれようとしていた。
交番の近くなら、ヤバイ人間も近づきづらいのでないかと考え、隣の大きな駅まで、急ぎ足でゆき、明るい交番の近くで朝を迎えた。
何事もなく、朝を迎えた男は、カバンを持って、朝一番に銀行で入金した。
980万円だけ、入金して、残りの20万円を持って、田舎にかえる電車に乗った。
男は、田舎に帰っても、お金のことは、だれにもいうことはなかった。

2008年2月28日木曜日

55 死に場所を探して

頭上の照りつける太陽の下、男は、死に場所を探していた。
山の草木が満ち溢れた奥深い山中で、ひっそりと建つ朽ちかけた小屋をみつけた。
だれもここに寄り付かなくなって、長い時が過ぎているのだろう。
青々と生い茂ったツタが、小屋のを包み込こもうとしていた。
入り口らしき引き戸をこじ開けるようにして、入ってみた。
中は、小さな台所らしき所と、六畳ほどの板間だけの簡素なつくりだった。
さび付いたのこぎりや縄など道具類がちらばっている。
元は、山仕事の人々の仮暮らしの小屋かもしれない。
男は、朽ちかけた板間の端に横になってみた。
目をつぶり、そのまま、じっとしていた。
山のさまざまな音が聞こえてくる。
何も考えずに、ただ、耳に音が流れ込んでくるままにしていた。
(こんなに心が穏やかになるのは、いつ以来だろうか)
はじめてのことかも、知れぬほどの穏やかさが、男を心地よくしていた。

男は、眠りから目覚めた。
夕方の光りが小屋の中に差し込んでいた。
やわらかな光りを見ながら、男は、この小屋にに住もうと考えていた。
死ぬのは、いつでもいいことだと思った。
死ぬにしても、ここで、暮らしたかった。
ここで、地球で生きているものとして、生きてみたかった。

男は、気づいていなかった。
山に入るときに、飲んだ大量の睡眠薬で、男は、すでに、死んでいた。
男は、そのことに気づくことなく、その小屋に住み続けた。

54 ある雨の日の出来事

 突然、降り出した雨の日だった。
その少女は、子犬を抱いて雨やみをしていた。
辺りには、他に雨やみを待てる場所はなく、
私は、少女の横に駆け込んでいった。
少女は、悲しそうな目をしていた。
白いTシャツは、濡れて透け始めている。
少女は、自分の濡れを気にすることもなく、
濡れた子犬の身体を小さなハンカチで
ふいている。
丸っこくて、健康そうな茶色の子犬は喜んで
ちいさなしっぽを盛んに振っている。
子犬を見ている私に、少女は視線を向ける。
私は、目をそらし、路面に当たる雨を見る。
そんな私に少女は、チラチラと視線を向ける。
私も少女と子犬をチラチラと見る。
路面を見ている私の目の端に
少女の方が多く、私を見ているのがわかった。
私は、知らぬ顔をしている。
二人と一匹でしばらく雨やみをすることになった。

しばらくして、
「おじさん!?」
少女は、小さな声で私に声をかけてきた。
私は、聞こえないふりをしていた。
そうしたほうがいいような気がした。
「おじさん、犬、好き?」
初めて、声にきづいたように
私は少女の方へ顔をむける。
引きつるような笑顔で私を見ている少女。
見知らぬ男に声をかけるのに、勇気がいったのだろう。
緊張が身体から、あふれている。
「おれ?」
うなづく少女。
私は、やさしく声をだしたつもりだったが、
少女は少しびくついたようだ。
私は、見知らぬ者に笑顔を向けることが苦手なので、
真顔で少女に対している。
「おじさん、子犬、好き?」
今度は、やや大きな声で、尋ねてきた。
「うん、好きだよ」
少女は、私に両手で子犬をさしだし、
「触ってもいいよ」
少女は、ちいさな笑顔を私に向けている。

 私は、しゃがんで子犬を受けとり、子犬の頭をなでてやる。
子犬は、私を恐れることもなく、小さなしっぽをプリプリふり、
私の膝に乗ろうと前足をかけてくる。
子犬の汚れた足が私のズボンを汚していく。
かまわなかった。
そのまま、頭や背中をなでてやる。
「おじさん、ズボン、汚れちゃうよ」
少女は心配そうにしている。
「いいんだ」
少女と私は、雨やみをしながら、
子犬をを二人で遊ばしていた。
雨は、なかなかやまない。
むしろ、強くなっている感さえある。
少女は、ポッケから透明ビニールに包まれた
赤くて丸いあめ玉を取り出し、口にふくんだ。
私にも、ひとつ差し出す。
私も口にふくむ。
甘くておいしい。
少女と顔を見合わせ、微笑む。
少女は、あめ玉を噛み砕いて、手の平にかけらを出し、
子犬の口元へもっていく。
子犬は、ペロリと食べてしまう。
「おじさん、いい人だね」
少女は、子犬の頭をなでている。
「大事にしてね。あげるよ」
少女は、そういうと、雨の中を駆け出していった。
私の返事を待つこともなく、少女は、いってしまった。
雨の中、私は、途方にくれ、
ただ、少女の走り去ったほうを見続けていた。

53 人形

その人は、人形を創っていた。いくつも、いくつも、創っていた。部屋の中は、人形で埋め尽くされていた。創っても創っても、その人の望んでいるものには、ならなかった。日々、人形のことだけを考えている。歩きながらも、食べながらも、何をするときも、人形のことを考えている。その人が、創りあげようとしている人形は、かわいい人形ではなく、きれいな人形でもなく、美しい人形である。かわいい人形、きれいな人形は、できているのだが、美しい人形だけは、なんど創っても、美しくならないのだった。一見すると、美しいのだが、かならずどこかに、美しくない部分が入ってきてしまう。その人は、ここ数日、うまくできないのは、自分の心に問題があるのではないかと考えていた。自分の心の奥底に潜む闇が、人形に反映されているのではないかと。しかし、その闇を消すことはできない。闇は、その人の過去でもあったからである。

51 洗濯機

洗濯機の中にいる少女は、スタートのボタンを押した。水が勢いよく、少女にかぶさってゆく。裸の身体を水が包み込んでゆく。首の辺りまできたとき、水槽が、ゆっくりと回り始めた。くるくる、くるくる、くるくる、止まり、反対にくるくる、くるくる、くるくる。少女は、時折、水をすくい、頭にかけている。十分ほどで、脱水が始まった。ものすごい速さで回っている。少女の髪が広がり、顔がいくつもに増えている。脱水が終わったところで、少女の手が中からふたをあけて、停止のボタンを押した。ゆっくりと洗濯機から出てきた少女は、パジャマに着替えて、ベットに入った。これが少女の一日の終わりである。人には言えない、一日の最後の楽しみである。

52 あの人

あの人が泣いている。
あの人が悲しいと、私も悲しい。
あの人が苦しめば、私も苦しい。
あの人を守ってあげたい。
あの人の小さな微笑が私を救う。
あの人の存在が、私の存在。
あの人の死は、私の死。

49 自己解放

わたしは歩いていた。全てに、疲れていた。橋の上から下の線路をみて、足を止めた。何かが身体の中を通りすぎるのを感じていた。いつか、自分は自殺するのかもしれないと考えていた。いつのまにか、数人の若い男たちがまわりにいて、ニヤニヤしていた。金をだせと言っている。断るといきなりなぐられた。痛みが少しもない。心地よいぐらいであった。心のなかの重みが薄らいでいくようであった。もう一発なぐられて、殴り返した。気持ちよかった。自分を解放するように、若い男たちを殴り始めた。気持ちよくて、倒れているものでも、殴り、蹴りと、繰り返した。一人を下の線路に投げ落とした。その男の身体の上を電車が通過していくのをみんなで見ていた。男たちは、逃げ去ったが、わたしは、下の男を見ていた。胴体だけが、そこには、あった。そこにあるものは、人間ではなく、ただのものであった。自分の姿をみているようであった。次の日からも、いつもの生活は続いている。

50 まぶしい光

強い光のなかで、わたしは、うつらうつらと夢心地でいた。長い間、こうしているようでもあるが、ほんの短い間のことのようでもある。目を開けたいようでもあり、このまま、この心地よさの中にいるために、目を閉じたままにしたい気もしていた。それにしても、まぶしい。まぶしすぎる。目を閉じているのに、まぶしすぎる。だれかが呼んでいる。それにつられて、つい、目をあけた。見ず知らずの人たちが、わたしににこやかに話し掛けている。わたしのこの世への誕生らしい。また、同じ世である。意識が遠のいて行く。いったい何度目のこの世なのか?いいかげん、あきてしまった。

47 神の力

女は、望むこと全てを実現する力を見知らぬ人から、突然もらいました。そのことで、何の制約もありません。無償でもらったのです。女は大喜びしました。だから、お金のために、人生を使うこともしないで、自分の楽しみだけに使って生きるようになりました。しかし、そんな生活が長く続くと、その生活がつまらないものになってきました。普通の人間のように毎日毎日、苦しみながら、ちいさな目標にむかって働いて生きて行くのがおもしろいということがわかりました。わかりやすい目標があれば、人間は、苦しくても生きて行けるが、目標が完全にない状態では、生きていくことができないということです。それで、目標を簡単にかなえることができる力がじゃまになり、見ず知らずの人に、その力をあげてしまいました。そのもらった人は、大喜びで、すぐに、どこかにいってしまいました。その後、その女は、わかりやすい目標のある仕事について、楽しく悩み、楽しく苦しみながら、普通な暮らしをするようになりました。女はすごく幸せでした。

48 おばあさんのノート

そのおばあさんは、毎日、数字をノートにびっしりと書き続けていた。何のために書いているかは、本人もわからないが、書かずにはいられない衝動にかられていた。手が勝手に数字を書いている風だった。ノートが数十冊にもなったある日、そのノートだけが全て、突然に、なくなった。次の日、おばあさんが、亡くなった。だれもが、ノートが無くなった事と、おばさんが亡くなったことには何か関連性があると考えていたが、だれも、ほんとうのことはわからなかった。それから数日で、おばあさんとノートのことはみなの記憶から無くなっていた。

46 見おぼえのない服

タンスを開けると、見なれない服がいくつも下がっていた。自分のもでないものの方が多い。何故だか、わからない。人のものを預かった憶えもない。嫁に聞いてみたが知らないらしい。嫁はそのことに少しも驚いていない。いつものことのような顔をして、そのまま出かけてしまった。わたしがおかしいのか?知らない服を一枚一枚調べてみた。全部、端に名前が入っている。同じ名前、自分の名前である。自分が忘れたということなのか?少しも、記憶にないということもないだろうに、完全に記憶にはない。わたしは、目をつむり、考え込んでいるうちに、そのまま、眠り込んでしまった。眼を覚ましたときには、タンスの中身はいつものままだった。驚いて、嫁に聞いてみた。まえから、そのままだという。わたしは夢を見ていたのか?
出かけたはずの嫁もいるし、釈然としないまま、夢ということにしようと自分をむりやり納得させた。心のどこかで真実を知らないほうがいいような気がしていた。

45 さとるの一族

その小さな子供さとるは、目の前の小屋に入りたくなかった。そこに、なにがあるかを知っていたからである。そこでの出来事は、自分がしたことであるが、望んでしたことではなかった。やらねばならなかったのである。さとるの運命なのである。さとるの先祖は代々、行ってきたことである。さとるの家系は子供が必ず双子で誕生するのである。そして、誕生から、八年後にはどちらかの命を絶たねばならないのである。そうすることで大いなる力を得るのである。さとるは、もうひとりの自分をその力で殺し、この小屋に残したのである。もう一人のさとるは、最後に笑って許してくれた。それでも、さとるは自分を許すことができなかった。汚い心を持った自分が生き長らえ、清らかな心の者がこの世を去っていったことが。それでも、さとるはその小屋へと入って行き、最後のしきたりをとりおこなった。最後のしきたりとは、もう一人のさとるの心臓を食らうことであった。こうすることで、さとるの一族は何千年ものながきを生きてきたのである。
posted by じゅん at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 保存用書庫
44 カーテン

カーテンにくるまって眠る家族がいました。生まれたときから、カーテンで眠っているのです。何枚ものカーテン、何色ものカーテンを身体に巻きつけて、直に床の上で眠るのです。頭の先から足の先まですべてをカーテンで包むので、人が眠っているようには見えません。生き物ではない物体が転がっているようにしか見えないのですが、数本の長くて、カラフルなものが、小さな部屋の中に並んで転がっているのは奇妙な感じをその空間に与えています。その家族が、布団ではなく、カーテンで眠っていることは世間の人々は知りません。
posted by じゅん at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 保存用書庫 検索ボックス
検索語句

<< 2007年06月 >> 日 月 火 水 木 金 土
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最近の記事
(06/30)54 ある雨の日の出来事
(06/02)53 人形
(06/02)51 洗濯機
(06/02)52 あの人
(06/02)49 自己解放

最近のコメント
タグクラウド
最近のトラックバック
25 出会い by 林田(06/04)
22 時計 by 林田(06/04)
23 気配 by 林田(06/04)
29 黒い手 by 林田(06/04)
31 乗り物 by 林田(06/04)

カテゴリ
保存用書庫(56)

過去ログ
2007年10月(1)
2007年06月(11)
2007年05月(43)

人気商品
ツネオテレビ ショートムービー2007
売れています!ガラスのおしゃれな体脂肪計..
バイタルビー ハチの子 蜂の子 めまいに!..
ソルトランプ・ナチュラル【M】
バスソルト【Mt.Sapola】ハーモニー 200..

Seesaaショッピング
RDF Site Summary
RSS 2.0

Seesaaブログ
カラフル  ネットで購入

Amazonポイントスタート!1500円以上国内配送料無料

Amazon.co.jpads by Seesaa 自由ヶ丘オーダーカーテンフェア

3月1・2日はショールームへ!予約制でプロの提案とお土産付き!

www.coco-fair.comads by Seesaa 大切な子供を危険から守る

セコムが見守る安心。ココセコムで子供の居場所をいつでも確認!

www.855756.comads by Seesaa タンスは通販のニッセン

ニッセンでは洋室、和室用様々なタンスやチェストをお買い得価格で販売

www.nissen.co.jp/ads by Seesaa

45 さとるの一族

その小さな子供さとるは、目の前の小屋に入りたくなかった。そこに、なにがあるかを知っていたからである。そこでの出来事は、自分がしたことであるが、望んでしたことではなかった。やらねばならなかったのである。さとるの運命なのである。さとるの先祖は代々、行ってきたことである。さとるの家系は子供が必ず双子で誕生するのである。そして、誕生から、八年後にはどちらかの命を絶たねばならないのである。そうすることで大いなる力を得るのである。さとるは、もうひとりの自分をその力で殺し、この小屋に残したのである。もう一人のさとるは、最後に笑って許してくれた。それでも、さとるは自分を許すことができなかった。汚い心を持った自分が生き長らえ、清らかな心の者がこの世を去っていったことが。それでも、さとるはその小屋へと入って行き、最後のしきたりをとりおこなった。最後のしきたりとは、もう一人のさとるの心臓を食らうことであった。こうすることで、さとるの一族は何千年ものながきを生きてきたのである。

44 カーテン

カーテンにくるまって眠る家族がいました。生まれたときから、カーテンで眠っているのです。何枚ものカーテン、何色ものカーテンを身体に巻きつけて、直に床の上で眠るのです。頭の先から足の先まですべてをカーテンで包むので、人が眠っているようには見えません。生き物ではない物体が転がっているようにしか見えないのですが、数本の長くて、カラフルなものが、小さな部屋の中に並んで転がっているのは奇妙な感じをその空間に与えています。その家族が、布団ではなく、カーテンで眠っていることは世間の人々は知りません。

43 右足

その人の右足は、不自由だった。生まれながらの不自由にはなれていたが、自分の足が不自由でなかったら、その女性を助けることができたのではないかと考えると、自分の情けなさにどうしようもなく、苛立ちを覚えていた。そんなおり、その女性は自らの命を終わりにしてしまった。女性の死を知った右足の不自由なその人は、自分の両足をナイフで刺しつづけた。血で足全体を赤く染めると、次はナイフを眼に差込み、目を抉り出し、次に左胸に差し込んだ。口元はなぜか、ほころんでいた。

41 墓石

墓石を拭いてあげる人がいました。仕事ではなく、だれの墓かも知らない墓でも、ある墓はすべて、拭いていました。白いタオルで、磨くように、丁寧に丁寧に、隅々まで、きれいにしていました。人々が何故、そのようなことをするのかと尋ねても、本人は、ただ笑って、やりたいからしているだけと、いつも、いっていました。雨の日も、風の日も、墓石磨きをしているその人の名前は、だれも、知りません。

42 カラス

一羽のカラスが、その男の頭上で鳴いていました。カラスは、木の枝のあちらこちらに飛び跳ねては鳴き、下のベンチに座っている男を見ては鳴き、を繰り返していました。男はカラスにいっこうに関心を示さずに、電話帳の2冊分はありそうな分厚い小説本をかじりつくように読んでいました。カラスは自分をぜんぜん相手にしない男に腹をたててしまい、つい、鳴かずに人間の言葉で言ってしまいました。「やい、下の男!おれがこんなに騒がしく鳴いているのに、完全に無視しやがって、何がそんなにおもしろくて、本を読みつづけていやがんだ。」男はその言葉に身体を微塵も動かさずに、首だけ、カラスの方に向けて、言いました。「わたしは、本を読んでいるのではない。あなた方カラスが違反をしないか、監視しているだけだ。残念ながら、あなたは、今、人間の言葉をしゃべりましたね。違反です。さっそく、あなたを処分します。あなたには、罰として、人間になってもらいます。以上。」その言葉が終わると同時にカラスは消滅し、ベンチの男の横にサラリーマン風の男が座っていました。サラリーマン風男はすぐに、立上がり、足早に、どこかに行ってしまいました。残された男も、いつしか姿が見えなくなってしまいました。

39 宅配便

宅配便を待っている人がいました。いつも、待っていました。その人は、いつの日か、自分の知らない人から、とても、大事なものが送られてくると信じていました。本人もいつからなのか、なぜ、そう考えるようになったのかも知らないのだが、確実にそうなると信じていました。いろんな人々にもそのことを話していました。待つようになって、十数年が過ぎたとき、ついに、見ず知らずの人からの宅配便が届けられました。大喜びで、すぐに、開けてみると、中にも箱が、入っており、手紙がそえられていました。手紙には、その箱を持って東京駅である人に渡してほしいと書いてあり、指示どおりに東京駅でその人物を待っていました。約束の時間、正午ちょうど、駅の鐘が鳴り始めると同時に、その箱が爆発しました。その人の身体は無くなりました。

38 出会い

電子レンジは、回っていた。マグカップでミルクを温めていたのだが、カップのふちに何かが見えたような気がしたので、回っているカップを見つづけていた。カップのふちを小さな小人が、スキップしながら、楽しそうに歌をうたっていた。暑さで死んでしまうと思い、慌ててドアを開けた。突然、ドアが開けられたので、小人はびっくりして、カップのふちから転げ落ちた。「痛いなぁ。突然、開けないでくれよ。びっくりしたじゃないか。」小人は、すこし、怒っていた。私は、初めて見る小人をまじまじとみていると、またまた、小人は、口をとがらせて、怒った。「何、じっーとみてんだよ!謝りなよ!あんたのおかげで膝を打ったじゃないか。いたいんだぞ!」それでも、私が見ているだけで返事しないでいると、「あんた、親に悪いことしたら、謝るように教えられなかったのか?もう、しょうがないなぁ。まぁ、いいや。初めて、俺を見て、びっくりしているんだろう。今日から、あんたとんところで、世話になるから、よろしく!」そういうと、小人は、愛嬌のある笑顔で、ぺこりと頭を下げた。その日から、一週間、私と小人のおもしろ、おかしい、生活が始まった。

40 ソファー

その美しいソファーは、長いことそこに置かれていました。窓際の日がよく差すところで、色もだいぶん変わってしまっていましたが、腰掛ける人は、みな大きなやさしさに包まれるようでリラックスでき、いつしか眠り込んでしまうといっていました。そのソファーには、女性の名前がついていました。だれがつけたのかは、だれも知らず、いつしか、瑠璃と呼んでいました。みなは、みることができなかったのですが、腰掛けていたものは、ソファーではなく、瑠璃の膝の上だったのです。

36 音

その女は、音の中に生きていた。誰もいない音の中に。静かな世界に。長い間、独りでいたために、人というものを忘れてしまった。人の心を信じられなくなっていた。自分をも信じていなかった。信じられるものは、静かな音の世界だけだった。目に映るものがすべて汚れて見えた。吐き気を感じていた。ある夜、女は自分の目にかみそりをそっと入れた。

37 解放

その人は、暗い部屋でうづくまり、震えていた。瞳孔の開いた眼からは、涙があふれていた。自分の正体を知ってしまい、驚き、うろたえ、愕然としていた。自分を、こころやさしく、親切な人間だと考えていたその人は、昨日、それとは反対に位置する行動をしたのだった。悪魔だった。這いずり回り、命乞いをしている人間。そこへ、さらなる苦しみと恐怖を与え、発狂させ、笑っていた。喜んでいた。その人は、自分のどこに、そのような心があったのか、そのときまで、気づていなかった。求めているものとは、遠くかけ離れている自分を呪い、恐れた。なぜなら、解き放たれたものは、戻らないことを知っていたからである。

35 草原

その男は、潜んでいた。青々とした草原の香り。やはらかに吹き抜ける風。待っていた。夜の闇に朝の太陽が差し込み始めたとき、その美しいものは、現れた。そろりそろりと舞い降り、ふわりふわりと消えていった。男は、いつしか、夢の中にいた。

34 電話

電話がなっていた。だれも、とるものがいない。その屋敷には長い間、だれも、住んではいない。受けるものがなくても、なりつづける。決まった時間に、なりはじめ、決まった時間になり終わる。深夜0時。響きわたるけたたましい音に、屋敷中が震える。

32 池の鯉

その人は、深夜、歩いていた。零下になるこの時間を薄い服装でいた。寒そうな風でもなく、淡々と歩いている。ある大きな公園にたどり着く。奥へ奥へと進んでいく。小さな池の前で立ち止まる。そのまま動かない。置物の銅像かのように身体の動きを止めている。辺りに動くものはない。突如、池の鯉が水面を飛び跳ねた。その人が動きだした。池の中にゆっくりゆっくりと、入っていく。水音がしない。完全にその人の姿は、水の中に入った。鏡のように静かな池の表面にその人が姿を現すことはなかった。

33 白いテーブル

その白いテーブルは長い間、そこに捨てられていた。山奥の林道の脇におかれるかのように捨てられたいた。一年に数回しか、人が通らないこの場所に。テーブルの上にからすが降りてきた。跳ね回るからす。そのうちにからすの足がテーブルにうずまり始める。羽ばたき、あばれるからす。どんどん身体がテーブルに飲み込まれ、数分で、すべて飲み込まれた。

31 乗り物

彼は、小さな乗り物に乗っていた。見たこともないものである。個人でいろいろな研究をしている人物である。彼から連絡をもらって、来てみると、その小さな乗り物に乗って私を出迎えてくれた。彼が今回、作り出したのが、この乗り物だ。なんでも、この乗り物は、見た目は、チャチなものに見えるが、力がすごいらしい。その力とは、その乗り物で街を走ると、その周りの人々は自然と心がリラックスしてしまい、幸せな気分になるということだ。たしかに、彼がその乗り物に乗っているのを見てから、私は、笑いつづけていた。その乗り物は、誰が見ても笑ってしまう形をしていたのだ。

30 橋

その質素な身なりの人は、いた。十数年前から、毎日かかさず、その小さな古橋のはきそうじをするようになっていた。山奥の、人もほとんど通らない橋である。竹ぼうきで、きれいにはきあげている。誰とも話そうとせず、ただ、黙々とはきそうじをし、きれいになると、どこかへ行ってしまう。

29 黒い手

川のほとりを歩いていた。流れが激しく、濁りもひどい川だった。それでも、女はこの川が好きで今日も散歩していた。いつも聞きなれている川の流れの音の中に異なる奇妙な音、引き寄せられるように川を覗き込む。ぬるりと飛び出した黒い手が頭をわしづかみ、ひきづりこんだ。すぐに、あたりは、いつもの川の流れの音でいっぱいになった。

28 欠損

その人は悲しみのなかにいました。いくつものいくつものかなしみのなかに。左手で、左胸をなんどもなんども叩きながら、涙を零れ落としながら、身体の奥底にひたかくしにしていたものを搾り出すように、言いつづけました。「ここがないんだ!ここが!ここがないんだ!」なんどもなんども、強く強く。

27 その存在

私は、深夜、マンションに帰ってきた。ドアの前で立ち止まり、部屋の中の気配をうかがう。これまで、部屋の中のものは、暗闇の中で、みじろぎもせずに、何もかもが、存在していると考えていたが、いつもがそうでもないと考えるようになっていた。なぜなら、ここ数日、ドアを開ける前に、耳をドアにおしつけて、中の気配を探ると何かの存在を感じ取れ、部屋の中のものが部屋の中を動き回っていることがあることに気づいたのである。しかし、部屋に入るとその存在の気配はなくなる。目には見えないが、何かが存在している。その存在しているものは、私にとってマイナスになるようでもない。プラスになるようでもない。存在しているだけかもしれない。その存在は、私のことを完全に知り得ていないようである。むしろ、私と同じ程度しか、知らないのではないのかとも、考えている。この空間をその存在と共有しているのではないのかと、いまは、考えている。いつか、その存在とコンタクトをとろうとしている。

26 海

何も身につけず、女はガラスの椅子に座っていた。静かな時を満たしている白い部屋。その女の前には、暗く沈んだ海を描いた大きな絵がかかっている。幾日もかけて、女が仕上げたものである。女は、ゆるりと立ち上がり、絵の海へと飛び込んだ。女は、海から、外の世界を見ている。絵は、完成した。

25 出会い

その絵の少女は動いた。わずかに身体を震わせ、私にその存在を示した。少女は生きていた。古い蔵の中で、長い間、独り、私を待っていた。その日から、私は、蔵に足しげく通いつめ、いつしか、少女と暮らすようになった。数十年が流れ、私の生が尽きようとする今も、少女は、私の側にいる。出会ったころの姿のままで。

24 娘と嫁

一日の疲れをとるのは、ソファーにゆったりと座ってテレビを見るのが一番の私は、今日もそうしていた。娘も嫁も出かけていない今日は特にリラックスしていた。おおげさではあるが、天国にでもいるようである。「いつも、こうならいいのになぁ~」とつぶやきながら、せんべいをかじっていた。そうこうしているうちに深夜になり、眠くなってきた。娘と嫁は今日も帰ってこない。実家に泊まってくるのだろう。そう思いつつ、長いソファーでそのまま眠り込んでいた。翌朝、目を覚ますといつもと何かが違う気がしながら、トイレに入った。頭の中を何かが通り過ぎた。娘と嫁のものがひとつもない。すべてない。昨夜は確かにあったのだ。わたしに嫌気がさして、逃げたか?そんなことを考えながら、慌てるでもなく、嫁の実家に電話しようと電話番号リストを引出しから引っ張り出した。嫁の実家の電話番号がない。突然、心臓がバクバクしだして、慌てて引き出しの中やそこらじゅうを探しはじめた。一向にみつからない。そうこうしている時、窓ガラスに人影がうつった。ようく見るとそれは自分の姿である。そこにうつっているのは、若いころの自分である。呆然と自分の姿を見つづけた。どうみてもむかしの自分である。鏡をとってみても、やはり、むかしの自分だ。わけがわからない。頭が混乱している。
部屋じゅうをあわただしくうろつき始めた。そのとき、後頭部をだれかに激しくなぐられた。目のまえに銀色の虫がいっぱい飛びはじめ、そのまま気が薄れていった。
遠くのほうから、だれかに呼ばれて、目を覚ました。そこは、娘と嫁がいる、いつもの部屋だった。夢だったのか?ボウ-とする頭で考えた。しかし、頭後部は大きく腫れ上がっていた。

23 気配

ある寒い日のことです。
その女は、暗くなったさびしい道をあるいていました。いつもの帰り道ですが、この日は、いつもとは何かが違うよう気がしていました。周りの木々のざわめきが妙に耳の奥へと響いてくるのです。自分の靴の音もあたりに響いています。誰かがいるような、観ているような感覚を背中に感じるのですが、振り向いてみることはできません。そこにいるものが自分にとって望ましくないものであることが感じとれたからです。女は自分の高鳴る鼓動で、身体じゅうが小刻みに震えるのを押さえながら、歩きつづけました。自分の意思ではなく、振り向いてしまいそうでした。あと少しで自分の家にたどり着こうとしたときでした。女の足首になにか柔らかいものがからまり、転んでしまい、その拍子に後ろを振り向いてしまいました。そこには、自分と同じ服装をした自分がいました。

22 時計

その人は、柱時計を見つづけています。
   赤い秒針を見ています。
   長い間、見ています。
   その人は、あることに気づきました。
   何時間かに一度、秒針が戻ることに。

21 青い海は少女を知っている

 強い日差しが照りつける、見渡す限り眩い、青い海。
少女の遺体は、その海にゆらりゆらりと漂っていた。
白いワンピース、白いソックスに片方だけの黒い革靴。
遺体の腐食は、激しかった。

 そこへ、回遊するイルカの群れがやってきた。
少女の周りを大きな円を描きながら泳ぎ始める。
しばらく回ると、その中の一頭が、少女に近づいていき、少女の腕に鼻を軽くあてる。
少女の身体が、揺れる。
まわりのイルカたちも少女の身体に触れる。
そのたびに、少女の身体は、ゆらゆらと揺れ続けていた。
イルカたちは、再び、少女の周りを回り始めた。
左まわりにグルグルと回り続ける。
しばらく回ると、二頭のイルカが少女の両腕をそれぞれに咥え、もぐり始めた。
仲間のイルカも二頭についていく。
イルカたちは、どんどんもぐっていく。
太陽の光りが届きづらくなってきたほの暗いところで、少女の腕は、放された。
少女の身体は、浮かび上がることもなく、音もなく静かに暗い海の底へと舞い落ちていく。
 イルカたちは、その場でしばらく旋回していたが、
少女の姿が完全に海底の闇に溶け込んでしまうと、いっせいに海面へと急浮上してゆく。
イルカたちは、海面が近づいてもスピードを弱めようとせず、海面を突き抜けていった。
強い日差しの外気に次々と身体を踊らせ始めた。
水しぶきを上げる曲線美の美しいイルカたちの身体は、光り輝いていた。
イルカたちは、しばらくジャンプを続けると、徐々にその場を離れて去っていった。

 その間も、少女の身体は、深海へと落ち続けている。
やがて、少女の身体は、暗い砂地の海底にうつぶせにそっとたどり着いた。
すぐに、足が異様に長い白いカニが少女に近づいてきた。
ザワザワと大量のカニが引き寄せられるように集まってくる。
少女の身体は、白いカニで覆い尽くされ、白い物体の塊りようになった。
カニたちは、少女の身体をハサミでちぎり取り食べ始める。
しばらくすると、白い物体の中ほどが盛り上がり始め、
激しい砂ぼこりをあげ勢いよく海底から離れ、上昇していった。
白い物体から、次々とカニたちが落ちてゆく。
少女の裸体が現れた。
長い髪をなびかせ上昇していく少女。
生き生きとした身体には、傷ひとつなく、完璧の形を成してしている。
大きく見開かれた眼は、頭上に光り輝く海面へと注がれている。
海面が近づいてきても、少女の上昇スピードは弱まらず、勢いは増していく。
少女の身体は、海面を突き抜けた。
海面高く、大きく飛び出す。
ギラギラと照りつける太陽を全身でうけ、光り輝く少女の裸体。
そのまま海中へと、白い泡をいくつもたてながらと落ちてゆく。
仰向けに浮かびあがってきた少女に、意識はなく、
再び、広い海を漂い始めた。

それから一時がたち、 照りつける太陽が雲に隠れ始めたとき、
白い大型クルーズ船が少女の傍に停まった。

20 1 + 3 = 1

春の夕暮れ。
池袋駅の東口。
大きな出入り口には、雑多な人々が行きかう日常の風景があった。
行き交う靴音がかたまりとなって響いている出入り口の端にその老婆はいた。
あまり手入れのされていない肩までのびた白髪頭の髪に、くすんだ色の服を身に着け、硬い石床に直に正座していた。
小さく曲げられた膝の前には、大学ノートが一冊ひろげて置かれている。
白いページに、罫線を無視した大きな文字がみだれるように書かれている。
私は、震えています。私は、震えています。私は、震えています。・・・・・・・・・     
その文字だけがいくつもいくつも繰り返されている。
緩やかに前後にゆれる老婆の身体。
そのうつろな視線は、数メートル先の固く乾いたアスファルトのひとところに向けられたままである。
干からびた小さな唇からは、身体のゆれに合わせるかのようにひとつの音がとぎれることなくこぼれ落ちつづけていた。
「ア、ア、ア、ア、ア、ア、・・・・・・・・・・」
そのような老婆に好奇な眼を向けるが、すぐに、日常の眼にもどり、意識を他のものへと移してゆく幾人もの人々が通りすぎていった中に、身体にピタリとあった濃い紺色のスーツをきれいに着こなした、ひとりの美しく若い男が立ち止まった。
男は、立ち止まった姿勢のままで老婆に視線を向けていたが、その前に置かれているノートに気づくと、そろりと近づいてゆく。
老婆の前に膝を落とし、ノートの文字をひとつひとつ丁寧に、声にならないような吐息で読んでゆき、老婆へと眼を向ける。が、老婆の視線は、動かない。
若い女性たちは、この美しい男に気づくと、ほほを染め、眼を輝かせながら通り過ぎていく。
 男は、老婆のほほにそっと手をのぼし、やさしく触れ、老婆の耳元に口をちかづけ、小さく囁いた。
「わたしは、大地、大地はあなた。
震えることはありません」
その言葉の直後に、前後に揺れていた老婆の身体は、ピタリと動きをとめ、眼を男の眼にあわせた。
 老婆の乾いた目はしだいに潤いが満たされてきて、こんこんと湧き出す涙が、ほほをつたい始めた。
老婆は、ノートの上につっぷして、幼女のように大きな声で泣きはじめた。
男は、老婆の小さな頭を、手入れされたきれいな手であやすようになでると、老婆のそばをそっと離れ、人ごみの中にまぎれていった。
 後には、老婆の泣き声が広がっていた。

19 風呂焚き人

垢と汚れで黒光りする服を身に着けたその男は、リヤカーいっぱいに積み込んたダンボールを引いて、大きな銭湯の裏口へと入っていった。
大きな口をあけた風呂焚きのカマドの前にダンボールを投げ落としてゆく。
カマドのまわりには、積み上げられた廃材や布ぎれの山、生ごみなどが混じったごみがあたりに積み上げられている。
このカマド部屋には、さまざまな臭いが混じりあい、尋常でない臭いが満ちていた。
ここがこの男の仕事場である。
仕事は、風呂焚き人。
ケチで人使いの荒いことで有名なここの主人は、重油を使って風呂を沸かすことは、めったにしないで、この男にダンボールや燃えるごみなどを大量に集めさせて、それを廃材とあわせてもやすようにさせている。
そんな主人の下で働くこの男には休みというものがこの何年もない。
しかも、主人は給料というものを払わず、飯が食えるだけでもありがたいと思えと常日ごろ、この男に言っている。
 それでも、この男は文句も言わず、ここで働くようになって十数年になる。
 ダンボールをリヤカーからおろし終わるとすぐにカマドに火を入れる。
ダンボールをカマドにどんどん投げ入れていく。
まわりの廃材や生ごみなどもどんどん投げ入れていく。
真っ赤な炎がメリメリと激しく大きく暴れはじめる。
カマド部屋の温度も急上昇してゆく。
男の身体中から、玉の汗が噴出してくる。
あばれはじける炎は、真水をどんどん湯へと変えてゆく。
カマド部屋の温度の上昇とともに、尋常でない臭いもさらに増してゆく。
この臭いのおかげで、このカマド部屋には、だれも寄り付かない。
主人でさえ、めったに入ってこない。
カマド部屋の奥にある、この男の寝泊りしている小さな部屋には、だれも入ったことがない。
この劣悪な環境のせいでこの男の前任者たちは、すぐにやめていってしまったが、この男は、満足していた。
自分自身は、ここ以外では、生きてゆくことができないと悟っていた。
なぜなら、この男は、主人の言いつけで、夜な夜なダンボールや燃えるごみを集めているのだが、年に数回、人をさらってきては、このカマドの奥の部屋に隠しているのである。
息はしていない。
もちろん、殺してある。
男は、人肉を食らうことに喜びを感じているのである。
食い散らかした肉や残った骨などは、全てカマドに投げ入れて、きれいに焼き尽くしている。
後には、何も残らない。
 この男が己の喜びを満たし続けるには、ここでの風呂焚き人を続けることは、必要不可欠なのである。
男は、天職とまで考えている。
 それゆえに、この銭湯の煙突からは、どす黒い煙りが立ち上る日が多いのである。

18 美学をもった悪魔たち

美学をもった悪魔たち
哲学をもった悪魔たち
思想をもった悪魔たち

17 知る者

その女は、自転車に乗っていた。
後ろに子供用かごがついていた。
若い母親だろう。
早いスピードで走りながら、歌を歌っていた。
私とすれ違いざまに私を見た。
その目は、言っていた。
「知っているぞ。お前のことは」
初めてみる女だった。
驚いた。
知っているのか?
私は、女が過ぎていくのを見続けた。
茫然としていた。
やはりとも思った。

16 宇宙の存在を確信したもの

頭の中で思い描いた場所に行くことが出来た。
海に行きたいと思えば、そこにいる。
空を飛びたいと思えば、高い雲の上を飛んでいた。
男は、どこへでも、いけた。
いつのころからか、自由にできた。
ある本によると、四次元での動きなのだという。
男は、三次元で生きているが、四次元にいる男が現実で、三次元にも来ていると考えるのが普通だろう。
三次元でいる男が考えてもはっきりした答えはでないので、男は、できるだけ考えないようにしていた。
男は、四次元の行動が出来ることをだれにも言ってなかった。
いえるものでも、なかったのである。
ある日のことである。
男は、宇宙の端へ言ってみようと思った。
そのときには、もう、そこにいた。
そこは、確かに、端だった。
なぜなら、そこから見えるところに、もうひとつの、宇宙が見えていた。
宇宙は、ひとつではなかっあ。
一般的にいわれている宇宙は、男がいるところの宇宙である。
しかし、宇宙は、無数にある。
男の宇宙は、無数の宇宙の一つでしかないことを知った。
それを知ったそのとき、男は、自分の中の宇宙にも気づいた。
宇宙とは、大きさを測れるものではない。
いろいろな場所に存在していて、さまざまな生き物の中にも存在していた。
宇宙の中に、宇宙があり、さらに、その中に、宇宙がある。
その宇宙の中には、その宇宙を含有している宇宙も中に存在していた。
つまり、宇宙とは、大の中に、小がある。
小の中に、大がある。
エンドレスの宇宙がつながっているのである。
男は、そのことを理解した。
男は、一層、今の世界では、異質のもののように感じられた。
しかし、あることにも気づいた。
このことに気づいた自分がいるということは、ほかにも、大勢のものがそのことに気づいているはずである。

15 黄色い椅子

ある冬の晴れた日のことである。
男が、だれもいない寂しい海辺を歩いていた。
突然、男の目の前に椅子が落ちてきた。
黄色いダイニングチェアーである。
男は、驚きのあまり、飛びのいた。
空を仰ぎ見る。
なにもない。
何もないところから、椅子が落ちてきた。
男は、首をかしげる。
なにもないところから、椅子。
椅子に近づき、触ってみる。
普通の椅子である。
また、空を見る。
やはり、何もない。
誰もいない。
飛行機もいない。
なのに、椅子が落ちてきた。
まわりの見渡すがだれもいない。
遠くまで見渡せるが、だれもいない。
男は、また、首をかしげる。
何がおきた?
男は、その椅子に座ってみた。
以外にすわり心地がいい。
急に意識が薄れていく。
朦朧としていく意識の中に、ある女性が現れた。
椅子を返してくれといっている。
椅子を空に向けて、投げてくれればいい、といっていた。
意識が、はっきりとしてきた。
男は、椅子から立ち上がり、いま聞いたとおり、椅子を持ち上げ、空に向けて、投げた。
椅子が男の手から離れたとたんに、椅子は、ものすごい勢いで、空に飛んでいった。
あっという間に椅子は、見えなくなった。
突然、強い睡魔が襲ってきた。
男は、倒れこむように、その場に、横になり、眠りに落ちていった。
男が、目覚めたのは、辺りが暗くなり始めた頃だった。
「あぁ、寝すぎちゃった」
起き上がると、足早に、海を後にした。
男は、何も記憶していなかった。

14 時間の交差

雨は、降り続いていた。
三日目になる。
彼氏の悟との約束の時間が近づいている。
沙織は、家を出て、雨に濡れたくなかった。
ベッドの上でごろごろしている。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
ノックの音で目を覚ます。
時計を見ると、約束の時間を二時間も過ぎていた。
飛び起きた。
きっと、悟が遅いので部屋に来たのだと思った。
ドアに急いでゆき、開けるなり、誤った。
顔をあげて、驚いた。
見知らぬ男が立っていた。
男は、何も言わずに、沙織を部屋の中に押し込んだ。
後ろ手で鍵を閉める。
沙織の口を押さえつけ、部屋の奥へと引きずっていく。
男のすばやさに、声を出すこともせず、ただ、されるがままになっていた。
男は、ポケットから出した布テープで沙織の口をふさぎ、手足をテープでぐるぐる巻きにした。
ベッドに沙織を押し倒す。
男は、一言も声を発していない。
男は、台所から、包丁を持ってきた。
沙織は、殺されることを確信した。
男は、沙織には、見向きもせず、壁の前に立った。
白いクロスを張られた壁に包丁を突き刺す。
壁紙をはがす。
壁紙のしたの板もこわす。
中から何やらやわらかい長いものを引きずりだした。
それを、男がもってきた黒いカバンに大事そうにしまう。
男は、壁に何かつぶやくと壊された壁が元通りになった。
沙織に、振り向き、何かをつぶやいた。
沙織は、意識が遠のいてゆく。
意識が完全になくなる前に男の顔がニタリと笑うのが見えた。
ドアの音で目が覚めた。
時計を見る。
悟との約束の時間を二時間も過ぎている。
ドアへと急ぎ、開ける。
悟が、怒った顔をして立っていた。
沙織は、謝る。
沙織は、謝りながら、何かを忘れたような気がしていた。
部屋には、男の姿はなかった。

13 消された時間

その夜は、強い雨だった。
人通りが少なくなった小道を赤い傘をさした女は歩いていた。
ヒールの音が辺りに響いている。
道の端に積み上げられている箱が動いた。
女は、びくついて、足がとまる。
その箱を凝視する。
箱の間に人の腕らしきものが見える。
苦しそうなうめき声が箱の奥のほうから聞こえてくる。
女は恐る恐る近づいて、覗き込む。
箱の一つをどかした。
そこには、若い男がびしょ濡れで倒れていた。
上半身裸である。
無数の傷から血が流れだしている。
女は、駆け寄り助けようとする。
男は、目をつぶったまま、女に近づかないようにいい、箱の奥の方へにじり寄っていこうとする。
女は、男の言葉には従わず、男の体を支え起こそうとする。
男の背中に手を回したとき、何かに触った。
男の背中には、羽が生えていた。
女は、突然、意識が遠のいていった。
女が倒れる。
女が目を開けた。
そこは、箱が積み上げられた箱の間だった。
女は、倒れていた。
自分がいつ倒れたのか、分からなかった。
女は、転がっている傘をとり、よろめきながら歩き出した。
雨は、降り続いている。
男を助けようとした記憶は女にはなかった。

12 時間の狭間

男は、部屋に戻ってきた。
忘れ物をしてしまった。
急いでドアを開けて、駆け込んだ。
そこには、いつもの部屋は、なかった。
大きな穴が口をあけていた。
洞穴だ。
男はビックリして、固まったように動かなくなった。
男は、戻ろうと後ろを振り向いた。
そこには、今、入ってきた。ドアはなかった。
後ろにも、穴が続いていた。
男は、洞窟の真ん中にいた。
男は、混乱していた。
何が起きているのか、理解できなかった。
洞窟は、真っ暗ではなく、どういうわけかぼんやりとした明るさを保っていた。
洞窟の中を小さな水の流れがあった。
男は、水の流れていくほうへ歩き始めた。
ゆっくりゆっくり。
男の足音が洞窟の中に響いている。
数百メートル歩いたころ、蛇が壁のへこみの中にいた。
蛇は、男に言った。
「まだまだだよ」
蛇自体に驚くのではなく、喋ったことに驚いている男。
男は、蛇が言ったことが何がまだまだなのかと訊いたが蛇は何も言わず壁の穴の中に入っていった。
男は、歩き続けた。
しばらく、歩くとカニが水の中から顔を出した。
「まだだよ」
カニも蛇と同じこと言うと水の中にもぐってしまった。
男は、歩く。
しばらく行くと、こうもりがいた。
「後、少しだよ」
そういうとこうもりはどこかにとんでいった。
男は、歩き続ける。
男の体が突然、下に空いた穴に落ちた。
男が気づくと男は、自分の部屋の玄関にいた。
男は、忘れた書類をとりに部屋の奥へと入っていった。
急いで書類をかばんに入れると、部屋をあわてながら出て行った。
男は、洞窟のことは、何も覚えていなかった。

11 ピエロは泣いていた。

ピエロは泣いていた。
踊っていた。
「ママ、あのピエロさん、泣いてるよ」
手を引かれている小さな女の子がピエロを指差している。
「ああいうお面なのよ。さあ、行くわよ」
母親は忙しそうに子供の手を引っ張っていく。
ピエロは、悔いていた。
自分の罪深さを悔いていた。
自分の言葉があの人を死に追いやった。
自分の一言が、あれほど、傷つけるとは考えもしなかった。
勢いで、言ってしまった。
悔いても、取り返しがつかない。
ピエロは、踊った。
彼の好きだった子供たちを喜ばせるために。
ピエロになって人びとを幸せにするのが夢だった彼の代わりにピエロは、踊り続けた。

10 天使と悪魔が遊んでる

悪魔と天使が遊んでいた。
かくれんぼ。
「天使君は、隠れるのがうまいなぁ」
真っ白な服の天使は、笑っている。
「悪魔君の方が上手だよ」
真っ黒な服の悪魔も笑っている。
仲良しのふたりだった。
悪魔が天使の頭に斧を振り下ろす。
天使の頭から血が噴出す。
悪魔は、笑っている。
天使の顔中に血が流れている。
真っ白な服も血で真っ赤になっている。
天使は、笑っている。
「悪魔君、ひどいなぁ。頭、割れちゃったよ」
悪魔は、笑っている。
天使の姿が見えなくなる。
悪魔の後ろにいる。
大きな岩を悪魔の頭に落とす。
悪魔の頭が体にめり込む。
首なしの悪魔。
悪魔の手足がばたついている。
悪魔の頭がぴょこっと出てくる。
「痛ってぇー」
悪魔は、笑っている。
「天使君、ひどいよ。頭なくなっちゃったかと思ったよ」
天使は、笑っている。
天使と悪魔の姿が同時に消える。
「また、明日遊ぼう」
「ばいばい」
二人の声があちらこちらから聞こえてくる。
二人の楽しそうな笑い声が遠のいてゆく。

9 男のしたかったこと

男が、部屋に帰ってきたのは、午前零時を過ぎたころだった。
商社に勤める男は、この時間まで接待をして、疲れきっていた。
部屋に入るとすぐに、ソファーに横になり眠りに落ちていった。
数時間が過ぎた頃、男は、喉が渇いて目がさめた。
冷えたミネラルウォーターを飲もうと冷蔵庫を開けた。
まぶしい光が部屋にこぼれる。
冷蔵庫の中には、小さく身をまるめて、少年が入っていた。
男は、飛びのいた。
大声で叫ぶ。
「うおおー」
少年は、微笑んでいる。
「おじさん、怖がらないで、僕、おじさんに話があってきたんだ」
少年は、冷蔵庫から出てきた。
ソファーに座り、男に話し始めた。
明日、男が死ぬこと、だから、最後にしたいこととかをしたほうがいいといっていた。
男は、返事をせず、ただ、少年をみているだけだった。
少年は、自分は、人生の最後の人びとに死が近づいていることを教えるのが役目だといっていた。
「おじさん、よく、がんばって生きてきたね。お疲れ様でした。もうすぐ、楽になれるからね」
少年は、にこやかにそういうと冷蔵庫の中に入っていった。
ドアを閉める前に、男にいった。
「だれにも言っちゃだめだよ」
ドアが閉まると、壁掛けの時計が二時を知らせる金をならした。
男は、同時にソファーに倒れて、気を失った。

夜が明けた。
男は、会社を休み、何をするか考えていた。
しばらくして、男は、両親に電話をした。
心配かけないように、やさしく両親の近況を聞いて、体に気をつけるようにいって、電話を切った。
それから、男は、好きだった海へ出かけ、海を見ていた。
自分の長い苦しい人生を省みていた。
苦しかったがよかったような気がしていた。
男は、海を見ながら、体から、力が抜けていくのを感じていた。

8 見覚えのない女

一日の仕事が終わり、林陽一は、自分のアパートに帰ってきた。
六畳二間に小さな台所、小さな風呂とトイレという安いアパートだ。
出張から帰ってきたので、一週間ぶりである。
カーテンが代わっていた。
林が、代えたものではない。
新しい花柄のもの。
林は、自分の記憶を探ってみたが、覚えがない。
隣の部屋を見ようと襖を開けた。
そこには、見知らぬ女が寝ていた。
畳に毛布一枚で体を小さくして眠っていた。
恐る恐る顔を覗き込む。
見覚えのない女だ。
しばらく、女を見ていた。
自分のところに女がくるような理由があったかを考えていた。
ない。
女は、華奢なのであばれても、林一人でも取り押さえることは出来そうだと思い、女をゆさぶった。
女は、林の顔を見ると、飛び起きて、頭を下げた。
「すみません。鍵が開いていたもので、つい、入ってしまいました。それと、行くところがなくて、ここは、居心地が良かったもので、つい、長居をしてしまいました。ごめんなさい」
女は、一気に言うと、泣き出してしまった。
二十歳かそこらの年だろう。
化粧をして、かわいい顔をしているが、もしかしたら、十代かもしれない。
男というものは、女に泣かれると、弱ってしまう。
林は、泣き出した女に困ってしまった。
夜遅くに、泣く女の声は、となり近所にも、聞こえてしまいそうで泣くのをやめるように女にやさしく声をかけた。
本来なら、たたき出すところなのだが。
女は、毛布に顔を押し付けて、尚も、泣き続けた。
困った。
林は、人とかかわりを持つと面倒なことばかりなので、一人でいることが好きだった。
面倒に巻き込まれそうで、この女をどうしようか考えていた。
かわいそうだが、泣き止んだら、出そう。
こんなかわいい顔して、本当のことを隠しているかもしれない。
なにか魂胆があって、この部屋にいるのかもしれない。
まず、この女を落ち着かせて、泣き止ますことだ。
林は、冷蔵庫からオレンジジュースを持ってきて、女に飲むように勧めた。
女は、礼を言って、静かに、飲み始めた。
少しずつ、女の話を聞いてみると、女は、自分の記憶がないらしい。
この部屋に来る数日前にこの近くの浜辺を歩いていて、自分が誰か分からないことに気づいたらしい。
よく、テレビドラマである話だ。
林は、嘘だと感じながらも、信じているふりをしていた。
女の話を全部聞いた。
女の話の中でひとつ気になることがあった。
女は、空から落ちて来たような気がするといった。
嘘にしては、おかしすぎる。
だまそうとするなら、もっと最もらしいことを言いそうなものである。
それが、こんな子供でも、おかしいと思うようなことをいうのは、変だ。
頭が、おかしいのか?
林は、女の目を覗き込む。
真剣に話している。
嘘を言っているようには、見えない。
女は、嘘がうまいから、こんなものかもしれないとも考えていた。
林は、いますぐ追い出そうか、迷ってしまった。
林は、この女がいることで自分が被るであろう損を考えた。
お金はないし、とられるものはないし、損失になるもののようなものは、ない。
それならば、朝まで、ぐらいなら、置いてやってもいいだろうと考えた。
明日の朝、警察に連れて行けばいいことだ。
自分は、いい人間だとおもい、 少しいい気分になっていた。
女を布団で寝かせてやった。
林は、隣の部屋で、毛布一枚に包まって眠った。
自分は、いい人間だと再び思っていた。
女が何故、ここに来たのかを考えているうちに仕事の疲れでいつの間に眠りに落ちていった。

目が覚めた。
すぐに、女のことが気になり、隣の部屋を見にいった。
女はいなかった。
布団は、きちんとたたまれていた。
布団の上には、小さな紙が置かれていた。
そこには、お礼といつか恩返しに来ると書かれていた。
林は、何か物足りないような、がっかりしたような気になっていた。
そして、記憶を失ったままの女のことが心配になってきていた。

7 現実のとなり

一日の仕事が終わり、やっと部屋に帰ってきた。
ソファーに深々と座り、煙草に火をつける。
静かに、煙を吐き出す。
何か変だ。
部屋の中が何かおかしい。
私は、部屋の中を見まわす。
普段と変わらないようであるが、何かが違っているようでもある。
部屋の中のさまざまなものをゆっくりと見てゆく。
何かの違いを見つけようとしていた。
白い壁の一部の色が青くなっているような気がした。
顔を近づけてみる。
周りの壁の白色とは、違う。
青みが入っている。
この部屋に住んで一年になるがここが青くなっていることには気づかなかった。
元から青かったのか、それとも、最近、変色したのか?
もっと、顔を近づける。
青い部分の色が変わってきている。
青から赤い色に変化している。
壁の中に何かあるのかもしれない。
私は、壁を触ってみる。
やわらかい。
暖かい。
壁を押してみた。
押した手が壁の中にめり込んでゆく。
吸い込まれるように、手はどんどん入っていく。
怖くなって、手を引き抜く。
壁から、離れる。
いつもの、壁のようにみえる。
壁に近づき、もう一度、手を入れてみる。
さらに手を伸ばしていく。
肩まで入った。
さらに押し込む。
顔まで中に入ってしまった。
息は出来る。
苦しいこともない。
何もない空間があるだけた。
体全体を中に入れた。
何もない空間は、白一色だった。
歩くことができる。
空間の奥がどうなっているのか、知りたくなり、奥へと進んでゆく。
いくら進んでも、何もない。
それでも進んでゆく。
突然、足元の感覚なくなった。
体が、下へ落ちてゆく。
意識が遠くなってゆく。

目覚めた。
私は、自分の部屋のソファーに座っていた。
夢を見ていたようだ。
あまりにもリアルなような気がしていたが、夢なのだろう。
壁を見たがいつもの壁があるだけだった。
私は、ベッドに横になり、眠りに落ちていった。
壁の一部分が青くなり、脈うっていた。
私は、眠り続ける。

6 携帯がなった。

携帯がなった。
見覚えのない電話番号だ。
普段なら、見知らぬ番号はとらない。
「もしもし、近藤さんでしょうか?」
私の名前を知っている。
私は、自分の知り合いの声をさがしてみる。
聞き覚えのない声。
「はい、そうです」
私は、あまり感情を乗せない声を出した。
相手がわからない状況ではこう言う声になる。
「私です。わかりませんか? 長野でのキャンプでいっしょに道を探した渡辺です」
私の記憶の引き出しが出たり入ったりしながら、長野のことを探り出す。
記憶に、長野でのキャンプをしたことを浮かびあがらした。
夜通し、山の中を二人で道に迷い、明け方になってようやく、大きな道に出た。
辛いが楽しい思い出を共にした女性だった。
「あー、あの時の渡辺さん。思い出しましたよ。元気でしたか?」
私の心は、急にウキウキしてきた。
かわいい女性が私を覚えてくれていて、三年ぶりぐらいに電話までしてきたのだから。
その反面、心のどこかで警戒をするようにとの声が聞こえてきていた。
何年も会ってない友人からの連絡には、ろくなことがないのが世俗の常だからだ。
私は、喜びながらも、何故、私に連絡してきたのかを、探ろうとしていた。
女性の名は、渡辺さゆりといい、若くて美しい女医である。
三年ほどまえの事、私が長野の山の中で一人キャンプをしようと山の方へと自転車を走らせているとき、車の故障で立ち往生している彼女に出会ったのだ。
車は、すぐには直すことは出来ないと分かると、私についていきたいと言い出したのだ。
こんな山奥で女ひとり明日までいるのは、怖いのでいっしょにキャンプに連れて行ってくれと懇願されたのだ。
私は、元来、独りが好きで、こんな山の中まで一人で来る人間なので、迷惑に感じていた。
男とは、困ったもので、困っている女性でも仲良くしていれば、後でいい思いが出来るのではと、下心を丸出しで女性の同伴を了解した。
女性は、山で野草を探していたので山歩きの服装としては問題なく、山の中を歩くのもそれほど、苦には、していなかった。
私は、自転車を車の傍におき、いっしょに歩いて、山にはいっていった。
私は、女性がいるせいか、まわりの目印や方角をよく確認をせずに
調子にのってどんどん山の中に入っていった。
そのおかげで三十分ほどで、完全に方向感覚を失った。
道に迷ったのである。
私は、彼女に道に迷ったことを悟られないように平然としていた。
辺りも暗くなり始めていたので、テントを張ることにした。
彼女は、テント張りも手伝った。
飯は、いつも多めに持ってくるので彼女にもそのことをいって、分けた。
彼女は、外で食べるのはおいしいと、即席ラーメンを喜んでいた。
食事の後は、お茶を飲みながら、お互いのことを話していた。
数時間前にあったばかりの二人であったが、長いことの友達のように、親しく話した。
気楽にいられた。
それでも、寝るときになって困った。
テントは、いつも、一人キャンプなので一人用なのだ。
彼女は、寝ないで朝まで起きていようとしていたが、そういうわけにもいかず、彼女がテントで寝て、私が外で寝ることにした。
幸いにも、その日は、雨も降らずに助かった。
しかし、蚊には、ずいぶんかわいがられた。

翌朝、いい天気だった。
山には、薄い靄が立ち込めていたが、澄んだきれるような空気の中を神々しいほどの朝日が穏やかに照らしていた。
彼女のテントは、静かなままだった。
私は、朝日の中、お茶を沸かして、飲んでいた。
そうしている間に、彼女もテントから出てきた。
明るい日差しの中で、お互いの顔をみるのは、前日の夜の出会いのときとは、何かが違うようで、何か気恥ずかしいものを感じていた。
二人は、挨拶を交わし、静かに、お茶を飲んでいた。
お茶がおいしかった。

それから、テントを二人でしまい、山を下り始めた。
山を歩き始めると、前日のように喋り始めた。
楽しかった。
楽しかったせいか、すぐに、彼女の車のところについた。
そこには、車の修理の人が来ていた。
他人がいるようで、急によそよそしく彼女は、私にていねいにお礼を言った。
私も、つられて丁寧に話して、そのまま、さよならをした。
数日は、彼女のことを考えていたが、いつのまにか、記憶からなくなっていた。
その彼女が、今、電話をしてきたのだ。
なつかしい、うれしい。
でも、どうして、彼女は私の電話番号を知っているのだ。
私の沈黙に彼女は、そのことを察したのか、番号のことを話し始めた。
「私が近藤さんの携帯番号を知っているのを不思議に思っているのですね。ごめんなさい。それは、今度お会いしたときに、教えます。聞いて、ビックリしますよ」
女性は、すこし、からかっているようなかわいらしい笑いをのこして、次の土曜日に美術館で会う約束をして電話を切った。
なにやら、不安のような、楽しいことのような、どちらともつかないような気分になっていた。

土曜日。
上野の美術館に私はいた。
すこし、早く着すぎたようだった。
それでも、それほど、退屈はしなかった。
私の好きなモディリアーニの絵がいくつも見ることが出来たからである。
彼の絵の中の人びとの心を描き出すあの黒く塗りつぶされた目は、ほんとにすばらしい。
ルノワールやマネなどきれいな印象派の画家とは、異なる現実を見ていた彼の心もまた、彼の絵の中の人びとと同じものを持っていたのだろう。
そんなことを考えて楽しんでいたら、彼女との待ち合わせの時間になっていたらしい。
彼女は、私の後ろに立って、私と同じ絵を見ていた。
あのときは、かわいらしいと思っていたが、いまは、きれいだと思った。
三年たったからなのかもしれない。
女性は、変化が速いものだそうだから。
「近藤さんて、けっこう格好いいのね」
微笑みながら、抑えた声で私の耳元の空気をゆらす。
「何をからかっているのですか。照れてしまうじゃないですか」
私も、小さく、彼女の耳元へと返す。
「いいえ、絵をみている姿を後ろから拝見してて、すてきでしたよ。
きっと、ここにいる女性の方たちもそう思っていますよ」
にこやかにからかうようにさらりと言う彼女の美しい動きに感動していた。
絵の前にたたずんでいる彼女こそ、ルノワールの絵のようだった。
彼女は、そんな私の心を知っているかのように、微笑む。
彼女は、私に語りかけてきた。
私の耳に声を届かせているのではなく、私の心に彼女の声は聞こえていた。
私が驚く表情をみて、悲しそうに微笑む。
「あなたに会いたかったの。あの時から、ずっと、ずっと」
彼女の目からは、涙がこぼれ始めた。
私の心も直接彼女の心に届くようになった。
「どうして、会いたければ、働いている所を話したから、知っていただろうに」
彼女は、頭を小さく左右にふった。
「私は、あの山を出ることができないの。あの山を出ると、私は、存在できなくなるの」
「会えてよかった。あなたに、会いたくて、会いたくて、声を聞きたくて、山を出てきたの」
彼女の涙は、溢れつづけている。
「あなたが私のことをきれいと思ってくれたことは、うれしかったよ」
彼女の姿が消えた。

にわとりが駆ける。

にわとりが駆ける。
静かにえさを食べている。
クークー。
静かに餌を食べている。
クックッ。
静かに餌をたべている。
にわとりは、歩き始める。
歩く、歩く。
止まる。
飛び跳ねる。
飛び跳ねる。
リズムを取って、跳ねる。
跳ねる。
ピタッと止まる。
流れるように、頭を右に左にと揺らしは始める。
いきなり、走り始める。
全速力で。
走る。
走る。
そこは、大きな道路。
車が何台も行きかう道路。
にわとりは、その道路に走りこんでゆく、
大型トレーラーが猛スピードで走り抜けていく。
にわとりは、踏み潰されている。
にわとりは、何故、走ったのか。

鏡が、歪んだように見えた。

鏡が、歪んだように見えた。
鏡を凝視する。
いつもと変わらない鏡がそこにあるだけだった。
自分がふらついただけなのか?
鏡が、歪むはずはない。
苦笑いをする。
ここのところ、深酒をしすぎたせいだろう。
さゆりは、四十にもなって不甲斐ない男だと言って、出て行った。
追うことはしなかった。

さゆりの言うとおりだった。
働くこともせず、毎日、絵を描いてばかりいたのだから。
俺が、女でも、出て行くだろう。
さゆりがいなくなってからは、絵も描かなくなった。
酒ばかり飲んでいた。
さゆりは、文句ばかり言って出て行ったが、俺の財布に十万も入れてくれていた。
最後まで、やさしい女だった。
出来損ないの人間そのものの俺にいつもやさしかった。

俺は、久しぶりに歯を磨き始めた。
黄ばんだ歯を磨いても、しょうもないことなのだが。
鏡の中のぼさぼさの髪をした自分をみて、情けなくなる。
また、鏡が歪んだ。
確実に鏡が歪んだ。
鏡を覗き込む。
いつもの汚れた鏡があるだけだ。
おかしい。
俺がふらついたのでない。
頭まで、いかれたか?
鏡がぐにゃりと曲がる。
歪んだ鏡に緑色した人間たちが写っている。
踊っている。
ゆっくりとした流れるような踊り。
中央にいる男が静かに手招きをしている。
体が鏡の中に吸い込まれていく。
意識が遠のいていく。
気づくと野原にいた。
爽やかな風が吹き抜けているやわらかな場所だ。
辺りを何もない。
どこまでも続く草原。
遠くに山並みが小さく見える。
おだやかな心に俺は、浸っていた。
気持ちいい。
こんな気分になったのは、どれくらいぶりだろうか?
背中に気配を感じた。
そこには、馬がいた。
「乗りなさい」
馬が俺に話しかける。
何もかもを知っているものの声。
俺は、その声に従う。
馬は、走り出す。
どんどん加速していく。
地面が離れたと感じたときには、馬は飛んでいた。
何もない空間を駆けていた。
馬の太い首にしがみつく。
暖かい。
生命を感じるその首。
大きな存在を感じる。
自分の知ることも想像もできない世界に生きている馬の知性を感じた。
どんどん高く上っていく。
地表が、遠のいていく。
頭上の雲が、迫ってくる。
雲の中に入っていった。
真っ白な世界が続いている。
永遠につづくように思われた。
突然に、視界が開けた。
そこは、大きな湖の真上だった。
湖の真ん中に飛び込んでいく。
息苦しいこともなく、湖の底へと進んでいく。
大きな城が見えてきた。
城の入り口に馬は、到着した。
「ここからは、一人で進んで行きなさい。奥で、ある方が待っている」
そういい残すと、馬は、飛び立つように湖面へと浮かびあがっていった。
水の中なのだが、少しも、苦しくなく、地上と同じような呼吸ができている。
体の周りにあるものは、水であることにはまちがいない。
ふしぎの世界にいるようだ。
俺は、馬に言われたように、大きな門を入っていく。
長い石の通路が遠くまで続いている。
まわりを見ながら、奥を目指して、歩いていく。
行けども行けども、通路の終わりが見えてこない。
歩調を緩めた。
「いらしゃいませ」
いきなり、真横に、花の形をした人間らしきものがいた。
見た目は、花。
喋る花なのだ。
とんでもないことが、目の前で起きているのだが、どうしたことかそんなに不思議がることをしない俺がいた。
当然のことのように、俺は、対応した。
「待っている方とは、あなたですか?」
花は、頭を横にふった。
「いいえ、この奥でお待ちのかたです。このまま、お進みください」
俺が、端がみえない通路をみて、
「どこまで行けばいいんですか?」
と、訊ねて、花に振り向いた。
花は、いなかった。
いま、いたものがもういない。
俺一人が通路に立っていた。
仕方なく、進み始める。
長い通路に変化はない。
どんどん進んでいく。
どのくらい進んだのだろう。
後ろを振り向いた。
そこには、椅子がひとつあった。
今、自分が通ってきた通路に椅子が置かれていた。
椅子があれば気づくはずだが?
おかしな気分になってはいたが、椅子があるからには休みなさいということだろうと思い、腰掛けた。
椅子が、ゆれた。
振り落とされた。
「無礼なことをするな」
椅子が喋った。
椅子の形をした人間というか、生き物。
よく見ると、目もあり、口もあった。
その目は、知性があふれたいい目をしていた。
俺は、あやまった。
いすは、すぐに機嫌をなおした。
「あなたをお招きしたのは、私です。あなたにお願いがあるのです」
いすは、お辞儀した。
わたしも思わず、お辞儀をする。
いすが言うには、人間世界をつくったのは、彼らなのだがその人間世界では、もめごとや殺人などよくないことがあまりにもおおすぎている。
それは、悲しいことなので、完全になくすことは、人間の発展のためには、よくない。しかし、多すぎる。
要は、ある程度、限度をこえないようにわたしに監視、調整をしてほしい。
と、いうのである。
何故、自分たちでしないのかというと、それは、世界が、違うので手を出すことは、禁じられている。
たとえ、彼らが作り出した世界でも。
わたしに、ある程度の力、ものごとを動かす力をさずけるというのであった。
人間界でいう超能力のようである。
わたしのような凡人で苦しんでいるものは、この力を断ることはない。
喜んで受けると申し出た。
しかし、この世界でもやはり、いいめんがあれば、わるいめんも必ずあるようで、必要でないことに使うと命を一日づつ削られるのだ。
これを聞いて、私は、たじろいだ。
たじろいだのだが、その力の魅力には、たいしたことには感じられなかった。
わたしは、その力を使う時のことを考えてワクワクしていた。
なんでも出来るように考えていた。
わたしは、喜んでいた。

ふと、辺りの景色が変わっていることに気づいた。
私は、草原にいた。
さっきまでいた長い通路ではない。
いつの間にか、ここにいた。
ここにいたというか、周りが変化した。
それとも、幻想だったのか?
私は、幻想でないことを願いつつ、あのさづかった力を使ってみようと考えた。
いざ、力で何かをしようと考えてみると、なかなか何がいいのかきまらない。
周りには、草しかないので、草が大きくなれと念じた。
まわりの草を見てみた。
大きくなっていない。
大きくなった草はないか、探した。
風で揺れている草があるばかりであった。
やはり、幻想だったのか?
信じたくなかった。
超能力というものを持ってみたかった。
何か、体から力がぬけたようになり、草の中をとぼとぼととりあえず、歩いた。
目が覚めた。
私は、ベッドにいた。
夢だった。
夢の中で、幻想を見ていた。
リアルすぎる夢のような気がした。
私は、ベッドから窓の外をみた。
夕方だ。
昨日は、いつもどおりに夜十一時には寝た。
今は、夕方。
ということは、私は、十五・六時間寝続けていたことになる。
おかしい。
今まで、こんなに寝たことはない。
べっどの周りを見る。
いつもと何も変わりはない。
しかし、何かが変なような気がしていた。
私は、洗面台に行き、鏡を見た。
いつもの鏡がいつものようにそこにあるだけだ。
あの時、鏡の中へと吸い込まれていった。
鏡に触れてみる。
何もおかしいところはない。
あの時、鏡がゆがんで私は、鏡に緑の人が写っていた。
やはり、夢の中のことなのか。
妙な気がしていた。
夢にしては、理屈にあっていたような気もするし、そうでもなく、おかしなものがしゃべっていたような気もする。
私は、気にはなったが、夢であるということにして、忘れようと考えた。
非現実すぎる。

私は、日課にしているランニングに出かけた。
自転車で十分ほど走り、そこから、ランニングをする。
長いこと、ランニングをしていると、自宅の周りは走りあきたのだ。
初めての地域を走ると路地や家々が面白くおもえて、ランニングをいつも、初々しい気持ちで続けることができる。
はじめての路地とかを走ると、よく方向感覚がおかしくなり、道に迷ってしまう。
それがおもしろい発見をわたしに見せてくれる。
こんな家があるのかと思うほどの変わった家。
変わった場所に家が建てられていたり、道がなくなり、急な階段がでてきたりとおもしろい。
この日のランニングも初めての地域だった。
都会なのだが、暗い路地を見つけて、ゆっくりと走ってはいっていった。
家々は、小さく低く、どこか北国の村の中にいるような感じのところだった。
生活の苦しさがその家々からは、にじみ出していた。
トタン屋根の錆付きといい、壁といい、何もかもが古びている家々が何件も続いていた。
私は、ふと、何かがおかしいと思った。
ここは、東京なのに、こんなところがあっていいのか?
ここは、どうみても、 東京ではない。
東京にたまたま、こういうところが残ったという考えがあるかもしれないが、それは、数件の家が貧しい家があるというのは、ありえるかもしれないが、ここは、違う。
ここら一帯が丸ごとむかしの日本そのものなのだ。
これは、夢なのか?
リアル過ぎる。
私は、走るのをやめて、歩いてみた。
一軒一軒をじっくりと見ていく。
外に置いてあるものとかも、何か時代を感じるものだ。
割と新しいのだが、昭和の初期に使われていたものとかが、外においてある。
自転車とかがそうだ。
何かいまの時代のものとは違う。
ここは、一体、なんなのだ。
私は、間違って来てはいけないところにいるような気がしてきていた。
戻ろう。
来た道を戻り始めた。
戻っているはずだが、さっきと違う。
道が違う。
数分前に歩いていた道がない。
見える遠くまでの建物が全て今の時代の建物がひとつもみえない。
立ち尽くしてしまう。
何が起きているのだ。
私の耳に街の音が入ってきた。
昔の人びとの生活の音がしている。
夢か?
タイムスリップか?
私は、混乱している。
夢では、ない。
気がする。
「これが、今のあなたの力なのです」
後ろからの声に、振り向くと、草原で会った椅子がいた。
夢ではない。
現実。
信じられない。
私が知っている現実とは、違う現実が存在している。
私は、力を使った覚えはない。
「あなたが心で思ったからこの街が誕生したのです」
椅子は、普通のことのようにさらりと言う。
わたしは、ランニング中に昔の家々があるようなところを走ると気持ちいいだろうなと、少し、思ったことをおもいだした。
あれだけの、思いが現実を創り出すとは、怖かった。
これからは、何も考えることができないとおもった。
とんでもないことを頭の中をよぎれば、それが、現実になりうるのだ。
私は、椅子に言った。
「こんな力は、いらない。私を元にもどしてくれ」
と。
「もどせません。あなたがいた元の世界は、あなたが作っていたのですから」
私は、椅子の言っていることが理解できないでいた。
元の世界は、私が創っていた?
あの世界は、誰が創ったものでもなく、そこに、元からあったのでないのか。
いつもあるもの、それが、あの世界だった。
椅子の言っていることが本当ならば、私は、私のための世界を自分で作り上げ、そこで、苦しみ、嘆き、喜んでいた。
自分で創り続けていた世界を私は、恨んでいた時期もあった。
しかし、今は、あの世界が一番いい世界のように思う。
私は、これから自分で世界を創っているとわかりながら生きていかなければならないのか。
そんなつまらないことはない。
全てが自分の思い通りの世界のどこがおもしろいのか。
わたしは、死んだほうがいい。
しかし、私は、自分の世界で死ぬことが出来るのだろうか。
死んだら、私の世界はどうなるのか?
目の前のものが、ゆらゆらとゆれ始めた。
何がおきているのかわからない。
体がゆれている。
意識が遠のいてゆく。
椅子の声が聞こえてくる。
「あなたは、新しい世界にいくのですね」
私は、深い森の中にいた。
椅子の言葉が耳に残っている。
新しい世界にいくのか?といっていた。
では、ここは、私の知らない世界なのだろうか。
自分の常識範疇を超える世界なのだろう。
その世界、世界でものの成り立ちから、全て、ちがうのだろう。
わたしは、 混乱の中をさまよい続けるのは、耐えられない。
脳がショートしてしまう。
私は、自分の意思で自分が死ぬことを望んだ。
意識が遠のいていく。
今度は、自分が望んだ通りに死ねる。

少女は、池袋の街を歩いていた。   継続中

少女は、池袋の街を歩いていた。
騒がしい街だが少女にとっては居心地のいい街でもある。
何か悲しい街でもある。
少女はいつもこの街にいた。
少女は、自分が何故、ここに存在しているのか、だれかに教えてほしかった。
ものの本にも、答えは書かれていなかった。
誰も教えてくれない。
まわりの人たちは自分の存在理由を知らなくても、楽しそうに生きている。
何故なのか?
少女にはわからない。
誰に聞いても存在理由はわからない。
神様は知っているのだろうか?

 少女の名前は沙耶。
都内の私立高校に通う聡明な美しい少女である。
沙耶の友達も学校の生徒たちもみな楽しそうに生きている。
本当にたのしいのだろうか?
嬉しいのだろうか?
沙耶には、わからない。
友達といる時は、いつも明るくしている。
よく笑っている。
自分が考えていることが笑われそうで、あまり話せない。
人間の存在理由とか、重い話はみんなが嫌うし、何か恥ずかしいようで、気取っているようで、嫌だ。
男の子たちは、親しげに話してくるが、全てが下心をもっている。
全ての女の子たちは、それを知っている。
ほんとうの愛情をほしがっている子もいる。
沙耶はそんな愛情よりも、人間の真実を知りたかった。
何故、人間はここにいるのか?
何故、人を愛することがすばらしいことなのか?
何故、憎むことがよくないことなのか。
この世の中で、お金持ちと貧乏人が同じ空間で存在しているのは何故なのか?
大金持ちは、昔から大金持ち、搾取するだけ。
人びとを騙し、莫大な利益を得ている。
何故、そこまでの利益が必要なのか?
ほんとうに莫大な利益を持った人間たちが存在しているのか?
一般の人びとには、そういう人たちの影らしきものしか、聞こえてこない。
殺人が繰り返されるこの世の中、戦争が繰り返されるこの世の中、何が正しいことなのか?
ほんとうにそれは必要なことなのか?
それは、憎むべきことなのか?
それとも、愛すべきことなのか?
戦争は必要悪なのか?
沙耶は、独りでそれらのことについて、調べてみるのだが、結局は、それらについて、真の答えを持っている人間がいるのか、いないのか、さえもわからない。
いないのだろう。
図書館に、こもり調べ続ける。
哲学、宗教、数学、物理、化学、どの書物にも答えはない。
この人間の長い歴史のなかで、それを解明したものはいないのか?
神は、人間にそのことをおしえてくださらないのか?
それとも、人間が知る必要がないことなのか?
人間が知ってはならないことなのか?
神とは、存在しないものなのか?
人間は、別のあるものから創り出されたものなのか?
神とは、そのもののことなのか?
人間は、地球の上で動き回るだけの小さな生き物というだけのことなのか?
それとも、人間が人間を作ったのか?
人間を造った人間はこの地球にいないのか?
他の星に移り住んでいるのか?
他の星が地球より前にできていたのか?

沙耶は、考えた。
人間が神によって創られたものならば、その人間を殺せば、その人間を創ったものが、なんらかのことを教えてくれるのではないか?
神が存在するならば、神が創りたもうた人間を幾人も幾人も殺し続ければ、神の意思に背くことになる。
神の損失となる。
神は、そのようなことを許しておくはずがない。
許すのか?
そのままに、するだけなのか?
人間、人類全てを殺しても、神にとっては、取るに足らないことでは、ないのか?
神は、実験をしているのか?
人間というものが、どのように進歩をしてゆき、どのようにして滅んでいくのか、いままでも、何度もテストしてきたことなのか?
恐竜の時代、また、他のものの時代。
その全て、テストした結果なのか?
恐竜を絶滅させたものに、何か起きたのか?
人間を大量に殺す。
人間を大量に生まれさせる。生産する。
そうすることによって、神は喜ぶのか?
人間を創り過ぎるとどうなるのか?
人間という生命が必要なのか?
人間のような生物ではなくて、人工的に創られたもの、ロボットのようなものを増やすことでも神は満足するのか?
しないのか?
殺すこともせず、生かすこともせず、ただ、何もせず、寿命を全うすることが神を喜ばすことになり、最後には、人間の存在理由を教えてくれるのか?
大量殺人をする人間は、神から何かを教えてもらったのだろうか?
何かを知っているのか?
神に選ばれて、殺人を犯したのか?
神にとって必要のないものが間引かれたのか?
死ぬことがすばらしいことなのか?
生きることがすばらしいことなのか?
人間を苦しめて殺すことがいいことなのか?
苦しめて殺せば、神は真実を教えてくれるのか?
戦争では、多くの人たちが死んでいった。
多くの人を殺すことが、兵士にとって、正義であった。
その正義は、神に認められたことによって、正義となったのか?
それとも、人間の正義なのか?
神は、大勢を殺した兵士たちに、真実を伝えたのか?
教えたのか?
真実を知ったものは、死んでいったのか?
真実を知ったものは、生きているのか?
死んでも、生きても、神は何も教えなかったのか?
真実を知るためには、神に自分自身で会うのがいいのではないか?
神に会うにはどうしたらよいのか?
神に会うには自分の命を捨てること。
死ぬことなのか?
天国にいるのが神なのか?
地獄にいるのが神か?
そのどちらにもいないものが神なのか?
神は、私なのか?
神は、人間なのか?
神は、崇拝されているものなのか?
神は、ひとりなのか?
多数なのか?
大勢の善良な市民は、神の存在を信じている。
だが、真実は知らされていない。
大勢の人を殺した兵士、大勢の人を殺した犯罪者、彼らもまた、神から真実を教えられていない。
では、誰が教えられたのか?
だれも教えられていないのか?
この世には、神に会ったというものが数人いる。
彼らがいうその神というものは、本当の神だろうか?
もし、本当の神であれば、何故、数人にしか姿を見せてくださらないのか?
何故、苦しむ人を助けてくださらないのか?
何故、この不平等な世界を存在させているのだ。
神に会った人たちは、何故、合うことができたのか?
正しいことをしたからか?
人を助けることが正しいことなのか?
生き続けると苦しみが多いだけではないのか?
苦しみがなく、すぐ、死ねたほうがいいのではないか?
苦しみのない人間がいるのか?
もし、苦しみのない人間がいるとすれば、それは、人間なのか?
神は、特別な存在を創造したのか?

神を冒涜してみることはどうだろうか?
神の悪口を言う。
神をけなす。

意味のないことだ。

神は全てのものに存在するという言葉がある。
神は、全てを見ているという言葉もある。
では、神は、全てのことを知っているのであれば、私が隠れて何をしようが神は、知っているということなのか?
神が全てのところにいるということ、全てのものに存在しているといくこと、全てを知っているということ、これらから、考えると、神とは、地球そのもののことではないのか?
人間は、地球の上に存在している。
神が地球ならば、地球の上で行うことは、神は、知ることができる。
そうではないのか?
地球というものは、地球に存在しているものを含めて、地球というわけだから、地球の土も地球であり、その上に存在している生き物、生物、人間、木、風、水、空、空気、これらのもの全てが地球ということになる。
神が地球ならば、その上で存在している生物もまた地球であるということは、人間もまた神であるといくことである。
では、神である人間が何故、苦しむのか?
それは、神ではないのか?
神でない証拠をだしているのか?
地球というものは、大きな宇宙の中のひとつの星である。
宇宙というものは、さまざまな星星が集まったものからできていると考えられている。
宇宙のひとつ。
宇宙の中にある地球もまた宇宙を構成しているものである。
宇宙を構成しているものが、宇宙ならば、地球もまた宇宙である。
ということは、地球は宇宙、宇宙は地球、太陽は宇宙、宇宙は太陽、地球も太陽、太陽も地球、地球も宇宙、宇宙は人間、宇宙は神、神は宇宙。
宇宙が神ならば、宇宙の一部である地球は神であり、神の一部である。
生物、人間も神である。
ぐるぐる回っている気がする。
これも神の罠なのか?
神を見つけられないように、神は、罠をしかけてあるのか?
これを突破したもののみ、神の存在を知ることができるのか?
これらのことから考えて、神は、宇宙であるとなると、人間の知るあらゆるもの全てが神であるということになる。
では、神は、神は私だ。
神がすることには、間違いがないといわれている。
では、私が殺人をしようとも、私が人を生かそうとも、私が盗みをしようとも、私の全ての行動は神がしているのだから、正しいということになる。
では、私があらゆることをしてみようと思う。
まず、手始めに、何からしようか?
いいことか、悪いことか、恥ずかしいことか、素敵なことか?
絶対数の少ない犯罪がいいのではないか?
私は、神だ。
私のすることに、間違いはない。
私の全てが、善だ。


沙耶は、街をぶらついている。
ゆっくり、ゆっくりと歩いている。
学生服を着たままの沙耶は、美しい。
中年のサラリーマンがそろりと近づいてくる。
沙耶の体を舐めるように視線を送っている。
「おねぇちゃん、ちょっと、一杯、付き合わないか?」
沙耶の胸を見ながら、へつらう。
間を置いて、沙耶は答える。
「いいよ」
沙耶の微笑が男に向けられる。
男の顔には、卑しい笑顔がのり、ヤニで黄ばんだ歯をだしている。
男は、沙耶を地下にある古びた居酒屋へと連れてきた。
煙草の煙で満ちた、その居酒屋は労働者風の人びとで混雑していて、むっとするにおいが満ちていた。
男は機嫌がよく、ひたすら喋っていた。
沙耶は、ほとんど聞いていなかった。
唾を飛ばしながら話す男の口を見ていた。
ネチネチと沙耶の体を見る男の目に、沙耶は、吐きそうな気分をおさえていた。
この愚鈍なもの、爬虫類、存在する必要のないもの。
男は、沙耶をホテルに誘った。
沙耶は、静かに、ついて行った。
一緒に、シャワーに入ろうという男に、断り、男に先に入るように言った。
男は、シャワーを早めに上げて出てきた。
沙耶は、シャワーを浴びにバスルームに入る。
すりガラス越しのシャワー室をのぞいている男の視線を感じでいた。
沙耶は、時間をかけてゆっくりとシャワーを使った。
沙耶がシャワーを終えて出てくる。
男は、待ちきれなかったのか、丸裸のまま、眠りこんでいた。
沙耶は、カバンから大きなナイフを取り出した。
男の体にそっと、またがる。
男の寝顔をそっと、覗き込む。
表情のない沙耶。
両手で、ナイフを逆手に持つ。
頭の上にナイフをゆっくりと持ち上げる。
一気に振り下ろす。
ナイフは、男の左胸に深々とめり込んで入った。
ナイフの長い刃の部分が完全に体に埋まった。
男の体が、ビクッと跳ねる。
男の目は、沙耶に向けられているが、焦点がずれている。
沙耶は、ナイフを静かに引き抜く。
沙耶は、男の胸から、流れ出る血を見ていた。
ドク、ドク、ドクン、ドクン、血があふれ出てくる。
沙耶はあふれてくる血を手で、男の胸一面に塗り広めた。
自分の乳房にも、血を塗りたくった。

沙耶は、シャワーを浴びる。
丁寧に丁寧に体を洗う。
ナイフもきれいにきれいに洗う。
着替えて、静かに、部屋を出て行った。
落ち着いた足取りで、長い廊下を歩いていく。
ホテルの外には、心地よい風が吹いていた。
風にふわりと揺れる髪。
ホテルのすぐ脇の角の自動販売機でオレンジジュースを買った。
自動販売機によりかかり、オレンジジュースをゆっくりと喉にながしていく。
喉を通り、体の奥深くへと流れていくオレンジジュースを感じていた。
沙耶は、何かいままでと違うものを感じていた。
いままでの自分から脱皮したような、心の何かがとれたような、台風が過ぎた次の朝のすがすがしい空気のような、すずやかな心になっていた。
何の恐れもなく、何の欲望もなく、ただ、存在を感じていた。
自分は、確かに、いま、ここにいる。
なにものでもない自分が、今、ここにいる。
空を仰ぎ見た。
星も月も何も見えない空。
それでも、今の沙耶には、きれいに見えた。
ジュース缶をゴミ箱に入れた。
メトロポリタンの方へとゆっくりと歩いていく。
ひどい酔っ払いのおやじが声をかけてくる。
今までと違い、嫌悪感も何も感じない。
心に怒りも震えも何も生じない。
メトロポリタンを仰ぎ見る。
深夜のこの時間、窓の灯りは少ない。
メトロポリタンへと入っていく。
上の階で部屋に入る。
父と母は旅行中のため、沙耶はこのホテルの一室を与えられていた。
一週間だけのホテル住まい。
大きな窓のカーテンを開け、眼下にある池袋の街を見下ろす。
いつもと変わらない池袋の夜の街。
シャワーに入った。
赤ワインを飲んだ。
そのままベッドに倒れこんで眠りに落ちていった。

翌朝、学校に登校した。
どしゃぶりの雨だ。
真っ赤な傘を差して、ホテルを出た。
男を殺したホテルの前を通っていく。
ちらりとも見ない。
視界にも入らない。
何の感情もなく、ホテルの前を通り過ぎてゆく。
公園に入っていく。
大きな噴水では、ハトが水を飲んでいる。
ハトたちの間をぬって、歩いていく。
ホームレスがベンチに寝転んでいる。
会社へと急ぐサラリーマンたち。
ヒールを鳴らして、女王様のようにあるくOL。
沙耶は、池袋の駅へと入っていく。
地下道をゆっくりと景色を見ながら歩いていく。
改札を抜け、階段をゆっくりと上り、大勢の人びとがひしめいているホームへと出た。
いつもと変わらぬ風景。
だが、沙耶にとっては、いつもとは違う風景に見える。
目的の電車に乗り込む。
満員電車の中。
誰かが、おしりを触っている。
そのままにしておく。
嫌でも、何でもない。
若い男が、助けてくれた。
おしりを触っていた男は、人ごみの中へと逃げていった。
沙耶は、若い男にお礼を言って、その場を別れた。
「いい人も、いるんだなぁ」
沙耶は、学校に行くのをやめた。
渋谷に行った。
洋服を買い、着替えた。
学生服は、コインロッカーに入れた。
電車に乗って、上野へと向かった。
動物園で動物を見た。
美術館へと入り、一枚一枚、丁寧に絵を見て、まわった。
絵の美しさにこれほど感動したことはなかった。
写真美術館へも入った。
キャパの写真展だった。
そこには、悲しい人たちがたくさんいた。
キャパの生き方に感動していた。
美術館を出て、もう一度、動物園に入った。
親子連れ、カップル、さまざまな人がいた。
動物園で、今朝、会った若い男に会った。
若い男は、沙耶に気づいた。
若い男は、沙耶に話しかけてきた。
「今朝は、大変だったねぇ」
沙耶は、軽くうなづくだけだった。
男は、いっしょに動物園をまわろうと言った。
沙耶は、うなづき、二人並んで、ゆっくり歩いた。
一時間ほど、いっしょにみてまわり、園の外に出た。
若い男は、そのまま、いっしょに歩いた。
若い男は、会社が休みなので、いっしょに暇をつぶしてくれないかと言った。
沙耶は、了解した。
日が落ちて、居酒屋に入った。
二人は、とめどもなく、話し続けた。
沙耶の気持ち。
沙耶は、人とこんなにたくさん長く話したことは、いままでないというほど、たくさん話した。
若い男もたくさん話した。
ふたりは、話がよくつづくよねぇといって、笑いあった。
ふたりとも、しゃべりにしゃべった。
二人とも楽しかった。
四時間ほどがあっという間に過ぎた。
携帯番号とメアドを交換しあい、その場を別れた。
沙耶は、池袋に帰り、街をぶらついた。
すぐに、おやじが声をかけてきた。
きりっとした服装で金持ちそうだ。
沙耶は、暇つぶしにそのおやじについていった。
おやじは、喫茶店でしゃべりはじめた。
どうでもいいようなことをしゃべっている。
しばらく、沈黙があった。
おやじは、手のひらを見せて、これで、どうだ、といった。
五万円の意味である。
沙耶は、オーケーした。
沙耶は、男の後に、シャワーに入った。
男は、ベッドで待っている。
沙耶は、シャワー室を出て、男の方へ向かっていった。
男に、言った。
やる前に、お願いがあるんだけど・・・。
あなたに、目隠しをしたい。
最初の十分だけ目隠しをしてほしい。
男は、なにやらうれしそうに、そわそわしながら、すぐに、自分で目隠しをして、喜んでいた。
沙耶は、かばんから大きなナイフを出した。
男にやさしい言葉をかけながら、男の腹の上にまたがった。
男は、喜んでいた。
沙耶は、男の左胸の上にナイフをあてがって、止まった。
ナイフに全体重をのせた。
ナイフは、男の体にすいこまれていった。
意外とナイフはするりと滑るように入っていった。
男の体は、びくんと一度、ふるえて、動かなくなった。
ナイフを引き抜くと血が吹き出てきた。
沙耶をその血を手に受け止め、自分の顔に塗りつけ、乳房に塗りつけ、又に塗りつけ、足に塗りつけ、体中血で赤く染めた。
沙耶は、興奮していた。
人間の死によって、興奮していた。
沙耶の左手は、自分の乳房を揉みしだき、右手は、股間に手を当てていた。
声を張り上げていた。

沙耶は、シャワーを浴びている。
丹念に体中を洗った。
体をきれいにした。
血を残らず、きれいに洗い流した。
沙耶は、着替えて、ホテルをでた。
自動販売機で、オレンジジュースを買って、ゆっくり飲んだ。
生きている感じを味わっていた。
とてもすがすがしい沙耶は、心のそこから、喜びが湧き上がっていることを感じていた。
沙耶は、三人目の男とホテルにいた。
男の胸にナイフを突き刺し、引き抜いた。
傷口からあふれる血。
傷口に唇をゆっくり、近づけ、血を吸い取った。
喉をならして、飲み干す。
顔中を血だらけにしながら、飲み続けた。

新聞では、ホテルでの連続殺人で大騒ぎ、テレビでも大騒ぎ。
沙耶は、少しも、気に留めていなかった。
沙耶は、四人目を殺した。
そのときは、何故か、満足感が得られなかった。
自分の手首を切った。
手首の傷から溢れる血を見ていた。
沙耶の顔には、痛みの表情はない。
すこしづつ、沙耶は、興奮してきた。

沙耶は、古い喫茶店の一階にいた。
沙耶の他には、四、五人の客がいた。
店員は、一人。
店員は、コーヒーを淹れていた。
沙耶は、かばんの中の失神させる神経ガスを静かに放出させた。
沙耶は、息をとめながら、トイレにはいる。
トイレで防毒マスクをはめる。
表の看板は、店に入るときにクローズにしておいた。
二、三分後、沙耶はトイレからでてきた。
店の中の人びとは、全員、倒れていた。
厨房の人も倒れていた。
沙耶は、窓のブラインドをすべて、下ろす。
沙耶は、店の奥にあった長いアイスピックを手に、戻ってきた。
痙攣している人びとの心臓を、その長いアイスピックで刺していった。
沙耶は、店の入り口にあったバットを持ってきた。
ひとりひとりの頭を叩き割った。
脳みそが飛び出た。
体も殴り続けた。
沙耶は、返り血を浴びながら、喜んでいた。
目は、大きく、見開かれている。
恍惚の状態にいた。
その時、店全体が揺れた。
店の入っているビルは五階建てだったが、一息に完全にビルは、つぶれた。
大爆音と共に店は、ぺしゃんこになった。

それから、数時間後、沙耶は、助けられた。
テレビカメラ、報道陣、野次馬に見守られるなか、沙耶は、レスキュー隊に助けられた。

沙耶は、奇跡の人として、テレビ、新聞で大々的に報道されていた。
倒壊したビルで助かったのは、沙耶だけだった。
沙耶は、数日後、病院のベットで目を覚ました。
沙耶は、テレビで報道されている自分をみた。
沙耶は、個室の部屋にいた。
沙耶の口元は、笑っていた。
テレビのコメンテイターは、ホテルの連続殺人のように、嫌なことばかりのときに、沙耶のように奇跡的に助かる人がいることは、うれしいことだといっていた。
悪いニュースの後に、いいニュースがあるのは、うれしいことだといっていた。
沙耶は、つぶやくように言った。
「これが、世間なんだなぁ」
沙耶は、次の日に退院した。

何もいわずに病院を出て行った。
それからの沙耶は、まじめに学校に行った。
普通に、友達と笑いあっていた。
ニュースでホテル連続殺人のことをいっていた。
沙耶は、友達と笑っていた。

2008年2月15日金曜日

そのひと

一日中、降り続いた雨の日だった。
夕暮れの池袋の駅前は、たくさんの傘が行きかっていた。
端のほうにその女性は、静かに立っていた。
大きな黒い傘を差して、黒くて長い髪に黒いコート、黒いブーツと全身を黒で統一された装いで、いた。
すらりとした長身に、端正な顔立ちは、モデルのように見え、まわりの人々とは、かなり、雰囲気も違い、目立っていた。
しかし、だれ一人として、その女性を見ている人は、いなかった。
いつもなら、これだけの美貌の持ち主がいると、まわりの人々は、遠目から見ていたりするものだが、近くにも、遠くにも、だれも、彼女を見ているものは、一人もいなかった。
少し、離れた人ごみの中で、私、ひとりだけが、見ていた。
その女性は、横断歩道を渡って、駅に入ってくる人々を見ていた。
周りの人々は、流れるように歩き動き変わっていったが、その女性と私だけは、一つところで、動かないでいた。
幾分かが、過ぎた。
彼女が、振り向いた。
私の目を見ている。
私が、見ていたのを知っていたかのような目でみている。
私の目を見たまま、私にゆっくりと近づいてくる。
私の目の前に立ち、私の目を覗き込む。
「私を、見てるの?」
不思議そうに、私に問いかけてきた。
うなずく私に、彼女は、うれしそうな笑顔をした。
何かきつい一言でも、言われるのかと思っていた私は、その笑顔に驚いていた。
彼女がしゃべりだした。
彼女が言うには、自分は、人に見られることが、いままで、なかったということらしい。
美人のほうに入ると、自分でも思っていたのだが、どうしてか、だれも、自分に関心を示してくれないことに、悩んでいたらしい。
それで、私が自分のことをずっと、見ていたことが、とても、うれしいといった。
そのまま、しばらく、いろいろなことを話した。
別れ際に、お友達になってほしいと、いわれたので、携帯番号を交換した。
にこやかに、私のもとを離れていく彼女の後姿を見送っていると、人ごみの中を走り出てきた男の子が、彼女にぶつかっていった。
ぶつかると思った瞬間、男の子は、彼女の身体を通り抜けてしまった。
彼女は、そのことに気づかぬままに、振り向き、私に、手を振っていた。
私は、その時に納得した。
まわりの人々が、だれ一人として、彼女に関心を示さなかったのは、彼女は、この世の者では、なかったからであった。
彼女は、他の人からは、見えないのである。
彼女は、そのことを気づいてないのだろう。
彼女が人ごみの中へと消えたところを見ながら、そのことを、彼女に伝えるべきか、考えた。
すぐに、決断した。
彼女から渡された携帯番号に電話した。
やはり、つながらなかった。
しかし、コール音だけは、続いていた。

2008年2月6日水曜日

夢うつつ

その夜、窓を打つ雨の電車には、他の乗客はいなかった。
奥多摩へと向かう最終電車。
私が降りる駅までは、まだ、10駅もある。
二両ある車両ともに、だれもいない。
いつもは、5、6人は、いるのだが、その夜は、私だけだった。
電車の車輪が、レールのつなぎ目を通過するときの、ガタン、ゴトンというリズムよく響く心地よい音が、いつもより、大きく聞こえていた。
時計は、11時になるところだった。
仕事の疲れが身体に残っていたのか、まぶたがゆっくりと閉じられていき、静かな眠りが私のからだを包み込み始めていた。
私の右手に暖かいものが触れた。
それが何かと確かめたいのだが、眠気のほうが強く、私は、目を開けることをしなかった。
小さな女の子の声が耳に流れ込んできた。
「ねぇ、ねぇ、おじさん」
太ももの上に置かれた私の右手の甲を何度か押されている感覚を覚えて、目をゆっくりと開いた。
おかっぱ頭で白いワンピース姿の小さな女の子が、私の隣に座って、私の右手を両手で揺り動かしていた。
だれもいないと思っていた電車に見知らぬ小さな子供がいた。
ちいさくて、見えなかったのだろう。
「どうしたの? お嬢ちゃん」
私は、出来る限りやさしくたずねた。
どうやら、大きい電車に一人で座っているのが怖くて、私の傍に来たらしい。
それでも、私が寝ているとやっぱり一人ぼっちの気がして、怖いから、起きて何か話しをしてほしいとのことであった。
私は、小さな女の子にあうような、猫が旅をする物語りを創作して、話し始めた。
女の子は、私に身体をよせ、寄りかかりながら、話しを静かに聞いていた。
かわいいものである。
私は、出来る限りやさしい物語りになるように、考えをめぐらしながら、夜の窓にうつる車内の私たちの姿をながめながら、ゆっくりと話しつづけた。
いつしか、私は、女の子に話すよりも、自分が話しにのめりこんでゆき、自分のために話し始めていた。
ふと、静かにしている女の子をみると、いつしか、目を閉じて、眠っているようであった。
そのやさしい寝顔を見ていると、暖かい眠りへの欲求が、再び、私を満たしていき、私も眠りへと落ちていった。


ビクンと私の身体が、ひと振るえして、跳ね起きたところは、私がいつも降りる駅だった。
電車の扉は、開いていた。
閉まりそうな扉から、急いで降りた私の手には、小さな白い紙が握られていた。
その紙には、ひらがなで
「ありがとう」
と、書かれていた。