2008年7月2日水曜日

71 ぼくが悪いんじゃない

 
 月曜日の朝も渋谷のスクランブル交差点は、人でいっぱいだった。
その中に今年入社式を迎えた木村五郎が真新しいスーツで身を包み歩いていた。
不機嫌な顔だ。
憂鬱な気持ちでいっぱいだった。
(ああ、今日もあの馬鹿上司に嫌味を言われるのか、顔も見たくないなあ)
五郎の足は、鉛のように重い足取りで会社に向かっていた。
まわりにも五郎と同じような表情をして歩いている人が大勢いた。
その中に派手な服装をした若い女がいた。
ぶつぶつと何か言っている。
その顔は、若い女の子の顔とは見えないほどの、疲れたような嫌味な顔をしていた。
女の体から、どす黒い雲のようなものがふわりふわりと出てきた。
それに気づく人はいない。
その雲のようなものは、漂いながら五郎の方に近づいて行き、五郎の体に吸い込まれていった。
あちらこちらの陰鬱な顔をした人々からもどす黒い雲が漂い出てきていた。
その雲は次第に集まり始め、大きくなっていった。
そして、その大きな塊となった雲は五郎の体の中へと一気に吸い込まれるように入っていった。
五郎の顔は、どんどん醜い嫌味なものになり、
暗くて深い淵の底のヘドロのような目に変化してきた。
顔つきも、どんどん険しく卑しくなってきた。
それに反して、どす黒い雲が体から出て行った者たちの表情は、すっきりとしたきれいな顔となり、はつらつと歩き始めている。
五郎は、だんだんとすべてのことが嫌になってきていた。
まわりにいる人たちをみると、怒りがこみ上げてきた。その存在だけで、無性に腹がたった。
(こいつら、ムカつく顔をしている、どいつもこいつも)
五郎は、まわりの人々を暗い淀んだ目でにらみつけ始めた。
そんな五郎に目を合わせる人はだれもいない。
その存在がないかのように人々は避けていく。
(こいつら、俺を馬鹿にしているのか)
横断歩道の青信号が点滅し始めた。
渡りきろうとした五郎の脇を五郎とは、反対側へと渡ろうとする女子高生の自転車が猛スピードで横断歩道に突っ込んでいった。
その女子高生のかばんが五郎のかばんにあたり、大きく跳ね上がった。
女子高生は、無言のままである。
  すぐに振り返った。文句を言いたい相手の姿は、すぐに人ごみの中に混じってしまい、どうすることもできない。
無性に腹がたった。
腹の中が熱くうごめき、体中の血が沸き立つのが自分でもわかった。
(こいつら、どいつもこいつも全員、殺してやる)
「うおおお」
空に向かって叫んでいた。
まわりの人々が驚いてみるが、そのまま通り過ぎて行く。
五郎は、強く決めた。
(殺してやる)
会社にいくのは、やめた。
(会社なんて、馬鹿らしい)
すぐに、包丁を買おうと決めた。
すごく切れ味のいいものを。
渋谷のどこに包丁が売ってるのかわからない。
五郎は、あちらこちらと探しまわったあげく、開店したばかりの東急ハンズに入った。
大型のナイフが載ったポスターが目に入った。
アウトドア用品コーナーへと走るようにして向かった。
気が急いてどうしようもなかった。
五郎本人も何に急いでいるのかわからなかったが、とにかく、急いで、刃物を手に入れたかった。
ナイフのショウケースの前についた。
たくさんのナイフがあり、どれが一番効果的に人を殺すことができるのか判断できずにいた。
ナイフを選びはじめると、汗が玉のように出てきた。
選ぶのもいらついてきて、どれでもよくなり、一番おおきなナイフに決めた。
一番、人を多く殺せそうだった。

ナイフをかばんに忍ばせて、街をうろついた。
どいつをはじめに刺し殺してやろうか、迷った。
一時間ほど、うろついていた。
ずいぶん歩いたので疲れ始めていた。
ハチ公前の信号待ちをしているとき、五郎の前に甲高い声で笑いながら携帯電話ではなしている女子高生が割り込むようにして入ってきた。
(決めた。こいつにしよう)
かばんの中に手を突っ込み、ナイフの柄を握り締めた。
タイミングをはかる。
信号が青になり、みなが歩き始めたとき、五郎はナイフを外に取り出し、女子高生の後ろにぴたりとくっついた。
五郎のかばんが女子高生のお尻に当たった。
女子高生は、痴漢でもみるような見下げるような表情で五郎をにらみつけた。
そのとき、五郎は、ナイフを女子高生の左わき腹から心臓めがけてつきあげた。
思ったほどの抵抗もなく、ナイフは、豆腐にでも差し込んだかのように、するりと柄まで入った。
女子高生と五郎だけが立ち止まっていた。
まわりの人々は、横断歩道を足早に過ぎ去ってゆく。
だれも気づいていない。
女子高生は、何か困ったような目をして五郎をみた。
純粋無垢な子供のような目だと五郎は思った。
そのまま崩れるように倒れていった。
ナイフも自然に抜けていた。
五郎はナイフを見てから、足元に倒れている女子高生を見た。
乾いた道路に黒っぽい血が広がり始めた。
赤い血も出てきた。
(血って、意外と粘りがあるんだなあ)
五郎は初めてみる大量の血を感心して見ていた。
(だれかに教えてあげようかなあ)
耳元で女の悲鳴が聞こえた。
頭が痛くなるほどの高音だ。
そのとき、五郎の体からどす黒いもやもやしたものが静かに出てきた。
天へと向かって流れていった。
だれもそれに気づいているものはいない。
五郎の意識が朦朧としてきた。
いきなり、後ろから突き飛ばされるように倒された。
背中の上にだれかが乗っかり、強い力で押さえつけているのがわかった。
(重いなあ。だれかこの重いものをどかしてくれないかなあ)
そのまま、意識がなくなった。