2008年3月14日金曜日

58 その力

 静かな雨の夜の日だった。
さゆりは、仕事を終えて、疲れた足取りで一人暮らしのアパートに帰ってきた。
ところどころ塗りのはげた青い鉄のドアの鍵穴に鍵を差し込んでまわした。
ドアノブをまわすが、開かない。
鍵をまわしたのに、開かないのは、最初から鍵はかかってない状態に鍵をかけたことであることにすぐに気づいたさゆりは、自分の失敗に、自分であきれていた。
「危ないなぁ」
独り言をいいながら、もう一度、鍵をまわし、中に入り、玄関の明かりをつけ、濡れた黒い傘を壁にたてかけた。
ドアの鍵をかけ、チェーンをかけ、服の濡れをきにしながら部屋の中へと入っていった。
疲れきっていたさゆりは、部屋の灯りをつけることもせずに、玄関の灯りと外から入ってくる隣の街灯でぼんやりと見えるベットに近づくと、濡れた服をすばやく脱ぎすて、下着だけになり、ベッドに崩れ落ちるように横たわった。
すぐに、さゆりの寝息が、1DKの小さな部屋に満ちてきた。
ときおり、通りを行き交う車のタイヤが、雨で濡れたアスファルトの上を水をはねながら、遠くへと過ぎさっていく音が、アパートにも流れ込んできていた。
それから、数時間が過ぎ、雨も上がったころ、体に何もかけずに眠り込んでいたさゆりは、寒さを感じて、目を覚ました。
掛け布団の中に入りなおそうとした時、目の片隅に、いつもとは、異なる大きなも黒いかたまりが、部屋の片隅にあることに気づいた。
ぼんやりと見えるものが、徐々に人の形になってくると、さゆりの喉はひきつるように空気を吸いこみ、両手は、かけ布団をわしづかみにして、体は、硬直してしまった。
大きく見開かれた目は、その黒いかたまりを凝視し、ひきつったのどからは、かすれた声しかでてこなかった。
「だれ?」
「・・・・・」
「だれなの!」
その大きな黒いかたまりは、申し訳なさそうに、声をのどの奥から絞り出すように、
「すみません。」
と、太い声を出した。
弱気そうな声にさゆりは、すこし、勇気がでてきて、部屋の入り口にある明かりのスイッチまでかけより、たたくようにスイッチを入れた。
一気に明るい光りで満たされた部屋の片隅には、大きく見えていたかたまりのものはなく、意外と普通の体格の男が正座をして、首をたれていた。
それを見た、さゆりは、一段と勇気がでて、打ち下ろすような口調で
「あんた、だれよ!  ここで、何してんのよ!」
一気に攻めた。
怖さで、興奮しているさゆりだったが、自分の言葉があまりにも、ありふれていて、この状況では、意味をなさないもだと感じていた。
もっと、ましな言葉は、でてこないものかと自分をいらだった。
しかし、他の言葉など、何もでてこなかった。
突然、その男の体が前に動いた。
同時に、さゆりは、入り口のドアに駆け寄り、震える手で慌てながらチェーンをはずし、鍵を開けドアを開け、外にでた。
廊下を走り出したさゆりだったが、自分が下着姿であることに、気づいた。
恐怖があったが、下着姿を人に見られるのは、もっと、避けたかったさゆりは、とっさに、部屋の前へと引き返し、ドアの前でしゃがみこんでしまった。
中に入るわけにもいかず、下着姿のままで大声を出して人を呼びにいくわけにもいかず、どうすることもできず、涙が自然に出てきた。
泣きながらも。少しだけ開いているドアから中をのぞくと、男は、さゆりのほうに両手を前について土下座をしていた。
男が動いたのは、土下座しただけだった。
男は、頭を床にこすりつけながらも、
「すみません!すみません!すみません!」
その声は、次第に涙声になってきていた。
その姿を見て、男には、危害を加える気がないのかなと考え始めたとき、さゆりは勇気をだした。
「わかったから、そこの服をこっちへ、投げてぇ」
人が来ると困るので大声を出すこともできず、男にだけ声が届くようなかすれ声で言った。
男は、頭を床から上げようとしなかった。
「早く、服をこっちによこして!いそいで!」
さゆりの必死の声にようやく、男が顔を上げ、さゆりのほうをみた。
男は、さゆりが何を言っているのかを理解できない表情で涙でくしゃくしゃになっている顔で、ただ、さゆりを見ているだけだった。
さゆりが、体を上半身だけをドアの内側に押入れて、
「早く、服をこっちに投げて!お願い!」
ドアから男のほうに出ているその姿を見て、初めて、さゆりの状況を察した男は、部屋の中に放り投げてある服を手に取り、さゆりのほうへと近づいた。
「来ないで!見ないで!」
男は、服をもったまま、動かなくなってしまった。
顔はさゆりを見ないように、部屋の奥のほうへと向けられたままである。
「服をこっちに投げて!早く!」
「ハイー」
悲鳴のような声を上げながら男は、顔を動かさずに、さゆりのほうへ服を投げた。
さゆりの手まで届かなかった服をさゆりは、手を目いっぱいのばして、つかんで引き寄せた。
ドアを閉め、部屋の外で、すばやく、渡された服を着込んだ。
そのまま、外に駆け出した。
誰かに助けを求めようとしたが、遅い時間のせいか、通りには、だれも、いなかった。
落胆したさゆりの足に濡れた路面の冷たさが伝わってきて、初めて、自分が何もはいてないことに気づいた。
その冷たさを感じながら、だれか、現れるのを期待して待っているうちに、次第に、さゆりの心が落ち着いてきた。
あの男は、強姦しようとあそこにいたのでは、ないのかもしれないと考えはじめていた。
泣きながら土下座している姿は、強盗をしようとしているとも思えなくなってきていた。
警察を呼ぶ前に、確かめてみる気になっていた。
しかし、危ない人間かもしれないとの気持ちもあり、武器になるもをさがすと、さび付いたゴルフクラブがひとつあったので、それを両手で握り締めながら、部屋の前までやってきた。
そっとドアを小さく開けて、中をのぞくと、男は、力なく下を向いたままうなだれていた。
みるからに、すべてを後悔しているのが、わかった。
さゆりは、そんな男にドアから、顔だけを入れて、
「どうして、ここに入ってきたの?」
と厳しく尋ねた。
うつろな目をさゆりのほうへゆっくりと、向けると、
「気づいたら、ここに、いたんです。本当です。」
「うそ!そんなこと、あるわけないじゃない!」
「・・・・・ほんとうです。」
「ほんとうのことをいわないつもり!とぼけるつもり!」
「本当なんです。僕は、海で魚を採っていたんです。海に落ちたのは、覚えているんですけど、
 その後は、覚えていないんです。気づいたら、ここに、いたんです。
 そしたら、あなたが入ってきて、服を脱ぎ始めて、ベッドで眠り始めたのでびっくりしたんです。」
僕という言葉をつかったので、さゆりは、男の顔をよく確かめてみると、真っ黒に焼けた肌と作業服に気をとられていて、40、50歳くらいかと思っていたら、
20歳代の若い男だった。
30歳手前のさゆりは、自分のほうが年上だと思うと、勇気が出てきた。
ドアを開け、中に入ったさゆりは、男を見下ろすようにしながら、
「どうして、こんなことしたの。犯罪よ」
「本当に、気づいたら、ここに、いたんです。自分で入ってきたわけでは、ないんです。」
すがるように、言う男の言葉には、うそを感じられないのだが、ここに現にいる男が、そのことを否定していることを証明していた。
理性は、この男は、うそを言っていると判断し、
感覚では、この男は、本当のことをいっていると判断していた。
どちらのほうをとるか判断しかねていたとき、男が戸惑いの表情で天井を見上げながら、
「あっ、また、くる」
「えっ、何がくるの?」
と、男をみると、男の表情は、恐怖のようなゆがんだ顔になり、
さゆりのほうをみた。
その目は、悲しそうに助けを求めていた。
その目に、男が言っていたことは、真実であったことをさとったさゆりは、男の身にとんでもない何かが起きていることを感じた。
助けなければ、この若者は、死んでしまうかもしれない。
「何、何が起こっているの?」
男のそばに思わず、駆け寄った。
その瞬間、突然、黒くて巨大な手が天井から伸びてきて、その男の胴体ををわしづかみにし、上へと連れ去った。
その時、身動きできない男の怯えきった目が、さゆりの目を見た。
さゆりは、その目を見返してやるしかできなかった。
一瞬の出来事でしかなかった。
天井を仰ぎ見るさゆりの目には、いつもと変わらぬ天井が映っているいるだけだった。
何が、おきているのか理解できずに混乱しているさゆりの脳裏には、ただ、男の最後の目が何度も浮かんできていた。
そして、数日が流れた。
さゆりは、そのことをだれにも言うことができずにいた。
現実の生活に追われている人々に、さゆりが体験したことを理解できるとは、思えないからであった。
頭が変になったとしか、見てくれないだろう事は、容易にわかっていた。
さゆりは、後悔していた。
男が話していることが、本当のことだと信じないばかりに、男は、あの理解できないような大きな手にどこかに連れ去られてしまったと考えていた。
男のことを信じていれば、あの場所からすぐに非難して、助かっていたのではないのかと、自分を責め続けていた。
しかし、今となっては、どうすることもできないこともわかっていた。
それでも、あの男の最後の眼が忘れられず、何をしていても、思い出してしまっていた。
あの悲しい眼、すべてをあきらめてしまった眼、人間は、自分の運命が自分ではどうすることもできないと知り、もう死ぬことがわかると、あのような眼をしてしまうのだろうか。
あのような眼を見たのは、初めてだった。
さゆりは、あの日から、外に出歩くことがへり、部屋に閉じこもることが多くなっていた。
そんなある日、部屋のベッドに入って眠りに落ちかけていたさゆりのベッドの足元で、重いものが落ちるたような音と振動が、さゆりの身体に響いてきた。
その振動から硬いものでないことは、自然と気づいていた。
さゆりは、飛び起きた。
あの男が、戻ってきたのだと思った。
確信していた。
明かりをつけた部屋の中には、
期待どおりに、あの男がいた。
男は、足を抱えるようにして、びしょ濡れの身体を横たえていた。
ぴくりともしない。
からだを見回したが、怪我はしていないようだった。
でも、意識がないところをみると、身体の中を痛めているのかもしれないと思い、救急車を呼んだ。
部屋にこのまま置いておくと、また、あのばかデカイ手がでてきて、つれさらわれそうなので、病院のほうが、安全だろうとの配慮もあった。
病院で、調べてもらったら何も異常もなく、ただ、眠っているだけとのことだった。
ただ、体力をずいぶんと消耗しているようなので、しばらく、このまま眠らしておいたほうがよいとのことだった。
男は、点滴のチューブを腕に刺したまま、長い時間眠り続けた。
目を覚ましたとのは、夕闇が迫り始めたころだった。
男は、眼の前にいるさゆりに尋ねた。
ここは、どこなのかと。
男は、あの大きな手によって、あちらこちらとつれまわされたので、自分がどこに今、いるのかが、把握できずにいた。
さゆりは、病室の天井を見ながら、病院も危険ではないかと考えはじめていた。
すぐに、男を車にのせて、病院をはなれた。
あの大きな手が、また、現れるのを恐れていた。
男に手のことを尋ねたが、男は、何も覚えていないといっていた。
男の服は、あちらこちらが傷つき、破けていたりするところをみると、男の記憶にはなくても、男は、乱暴に扱われていたにちがいなかった。
はげしい扱われかたをしたせいで、男の記憶がないのかもしれなかった。
男の記憶には、さゆりの記憶もなかったが、男は、さゆりのことを悪い人間では、ないと判断しているようであった。
さゆりのなすがままにしていた。
さゆりは、男をどこにつれてゆけば安全なのか、あの大きな手から逃れられるのかを考えたが、いい答えが出てこなかった。
あの手は、また、男を捕まえにくるのか、それとも、こないかもしれない。
しかし、来るかもしれない、そして、こんどは永遠に男をどこかに連れて行ってしまうかもしれない。
こないかもしれないかれど、来ると仮定して、その時の対応を先に考えておくのがベストだろうと考えていた。
この男を、あの手に渡さないようにするには、あの手が、何なのかをはじめに、知る必要があった。
さゆりが知っているこの手の調べる方法は、ネット検索しか思いつかなかった。
人が多くいるネットカフェのほうが何かと安全だろうと男を連れて、わりと大き目のネットカフェに入った。
すぐに検索しはじめたが、なかなか真の答えのようなものは、なかなかみつからなかった。
しばらく、さゆりが検索していると、男のようすがおかしくなってきていた。
何かを言いたそうだった。
男に、そのことをいうと、なんでもないというばかりであった。
さゆりがしつこく何度もいうと、しぶしぶ話し始めた。
「君が、僕をあいつから、助けようとしているのは、うれしいがたぶん無理だと思う。君は、人間だが、あいつは、人間じゃない。何かは、わからないがこの世のものではないことは、確かだ。もしかしたら、あれが、悪魔というのかもしれない。死神かもしれない。だから、もう、何もしてくれなくていいよ。僕は、これは運命として、うけいれているから。」
悲しい目というより、悟ったような目になってきた男のその眼をジィーと見ていたさゆりは、
「悪魔だろうが、死神だろうが、あんたを苦しめるやつからは、私が守る。必ず。」
なぜ、これほどまでに、男を助けようとしているのか、自分でも、よく理解できていないのだが、同じ人間どうしだからかもしれない。
ほっておけない。やらなければならない。当然のことだと強く感じていた。
男が、あきらめていると分かるとよけいに、さゆりは、男を守ってやろういう気が強くなってきていた。
人間というものは、自分の近くに存在しているもの、同種のものについては、自分より多少弱いと思われるものは、徹底的にいじめ、殺してしまおうとするが、自分よりも完全に劣るものに関しては、反対に、守ろうとするもののようである。
さゆりも、そのようになってきていた。
さゆりは、完全に戦う気力をなくしているこの男を、ただ、守り抜きたかった。
だが、どのようにすれば、守ることができるのかは、皆目、分からずにいた。
人間ならば、どんなに大きな相手でも、対処する方法というものは、これまでの生きてきた人生のなかでの、経験の積み重ねから、ある程度の知識をもち合わせているので、なんとかできるのだが、人間ではない、えたいのしれないものとなると、どのように考えて、戦えばいいものなのか、作戦のたてようが、ないように思えていた。
さゆりは、男の様子をうかがいながら、ひたすらパソコンのキーボードをたたきつづけた。
検索しかないと思っていた。
人間でないものに、対しての対処方法をしっているものが、この世界には、いるのではないかと考えていた。
なぜなら、この男のようなことが、今回が、はじめてでは、ないはずだった。
人間の誕生から今の人間の世界までが、たとえ短いものでも長いものでも、同じようなことが、必ず、世界のどこかで、起こっているはずであると思っていた。
さゆりは、さまざまな言葉を検索窓に入力して、検索しつづけた。
悪魔、死神、天使、呪い、闇、腕、消えるなど、関連するかもしれないと思われる単語をさまざまに組み合わせていた。
関連のありそうなサイトは、幾つか見つけることができたのだが、どれも、遊びの域からは、でていないものばかりだった。
それでも、検索を数時間続けたとき、ヒットした。
そのサイトには、こう書かれていた。
あなたのすぐ、そばには、別の存在が存在している。
読み進めていくと、その存在とは、形を変えながら、この世の中を存在しつづけていたとのことだった。
その存在は、人間が存在するかぎり、その存在も生き続け、いわば、共存の存在であると書かれていた。
つまり、その存在は、消すことは、不可能であるが、その存在を静かにさせることは、可能であるとも、書かれていた。
その存在は、人間の心が弱まると存在を示し始める、そして、人間は、自身で意識を強くコントロールしさえすれば、その存在は、怖いものでは、ないと書かれていた。
つまり、強い意識があれば、その存在に勝てるということである。
弱い心の本人を他のものがカバーすることも可能であると、かかれていた。
さゆりは、すぐに、男にそのことを話した。
しかし、男は、そのことを理解しようとせず、ただ、そんなことがあるはずがない、というだけだった。
意識で、あの大きな不気味な手から、逃れることができるものではないと男のこれまでの人生の経験からでは、そのような答えがでてきたのかもしれない。
意識というものの、パワーを知っていないものには、理解しずらいことかもしれなかった。
さゆりは、その系統のことに関心があり、本をたくさん読んでいたので、すぐに、その意識の力を理解することが出来たのだった。
物体とは、意識の束の塊であることを、すでに、さゆりは、知っていた。
この世の中のことを、意識で動かすことができるということも知識としては、持っていたが、それを、現実に使う状況になろうとは、おもっていなかった。
さゆりは、男が信じてくれなくても、自分が信じて意識を動かせば、現実も動かすことができると、強く思っていた。
だから、すぐにでも、あの巨大な手が、現れるかもしれないこの状況では、すぐに、意識を集中しはじめた。
さゆりの頭のなかで、意識は、ある方向へと動き始めた。
その意識は、想像し始めていた。
あの巨大な黒い手が出てきたときに、さゆりの意識でつくりだした白い大きな手が出てきて、黒い手をポキリと追ってしまい、男とさゆりは、助かるというものだった。
さゆりは、その想像を幾度も意識を集中して、繰り返した。
想像が創造になることを微塵の疑いのこころもなく、想像できるように、呪文のように、お祈りするように、頭の中で、繰り返した。
男は、さゆりのそんな姿をみて、男もまた、さゆりと同じ想像を共有し、さゆりと手をつなぎ、繰り返し想像した。
呪文のように、繰り返していたふたりの想像が、数時間続けられていた時、二人がいるネットカフェの天井が、音もなくゆらゆらと揺らめき始めた。
その揺らめきは、次第に大きくなり、ネットカフェの床も各ブースの仕切りとなっているパーテーションも揺らめき始めた。
あちこちから、客たちのざわめきが出始めていた。
さゆりたちも、ざわめきのなか、ひたすら、意識を集中することに勤めていた。
すぐそばに、あの巨大な黒い手がちかづちていることは、気づいていたので、さらに、いっそう、意識を集中させていった。
次第に、ふたりは、まわりの騒ぎなども耳に入ってこないほどに、集中してきていた。
天井の蛍光灯がわれ、あちらこちらで、火花がはじけはじめていた。
その二人の真上の天井が大きく揺らぎ始めると、黒い大きな手がゆっくりと形をなし始めていた。
他の客たちには、何も感じないのか、そして、見えないのか全体が揺れ続ける中で、いつもと変わらぬ行動をしていた。
そんななか、黒い巨大な手は、完全な形になると、すぐに、さゆりたちに、襲いかかろうとした。
その時、さゆりたちのからだから、いきなり大きな白い手が飛び出した。
その白い手は天井から近づいていた黒い手に飛びつき、わしづかみにすると、黒い手の手首をあっけなく、へし折った。
その瞬間、ネットカフェ全体に大きな塊のような振動と落雷のような激しい音が鳴り響いた。
一瞬であった。
それで、すべてが終わったようであった。
さゆりは、終わったことを確信していた。
なぜなら、さゆりの意識は、これで、すべてを終わることを望んでいたからである。
すぐに、いつもの、風景が戻ってきた。
いつものように、大勢の客たちは、それぞれ思い思いの行動をしていた。
さゆりは、そんな客たちをみながら、男を外に連れ出した。
あの大きな黒い手がなくなったからだろうか、男の目には、強い光が宿ってきた。
人間の男らしい目の男である。
男は、記憶もはっきりとしてきた。
そして、男が語り始めた。
あの黒い手は、男が一人で漁をしていると、いきなり、海の中から現れ、男の身体を海の中にひきずりこんだということであった。
そこからは、どこかわからぬところをあちらこちらと引きずりまわされていたのである。
男は、圧倒的な黒い手の力に抵抗することが出来ず、ただ、もうじき、自分は、死んでしまうだろうと強く考えていたらしい。
男がさゆりにそのことを話しているとき、男は、突然、身体全体の関節が抜けたかのように、崩れ倒れていった。
さゆりは、すぐに、この倒れ方は尋常ではないことがわかり、男の首もとに手を添えて、脈をとると、すでに、反応はなくなっていた。
男が、死んだのは、あの大きな黒い手が原因ではない。
男自身の強い意識がこの結果をつくりだしたとさゆりは、気づいていた。