2012年2月3日金曜日

74 眠る男

男は眠り続けていた。
いつのころからか、眠っているのだが、
それが、いつのころからなのか、
覚えていない。
男は、ある小さな部屋でただ、
眠り続けている。
死んだように、眠り続けている。
起きるのは、一日に数分だけ。
 男は、ある実験に参加することに、
誘われて、それに、従った。
それが、眠ること。
ただ、毎日、眠ること。
それが、実験になると言われて、
毎日、ただ、眠っていた。
初めのうちは、毎日眠ることを続けることは、
厳しいものがあったが、
いつしか、一日のほとんどを
眠り続けることに、
苦痛を感じることもなく、
ただ、眠るだけの生活が普通に
なってきた。
眠っている間には、
たくさんの夢を見ることが
できた。
自分で見たい夢を見ることもできるように
なった。
いつも、夢の中では、
自分が主人公の映画の
中にいるようなものだった。
楽しい毎日である。

 ある時、夢の中で、
自分が眠り続けていることを理解していた。
そして、考えた。
夢の中が、ほんとは現実なのではないか。
夢でなく、現実と考えていることが、
夢ではないか。
夢の中で何日間も考え続けていた。
そのうち、夢の中で結論がでた。
夢の中であろうと、なかろうと、
どこがほんとの現実であろうと、
それは、さほど、
大きな問題ではない。
自分が存在していることを
確認できるところが、
自分の存在している場所である。
との、
結論である。
男は、それからは、
さらに深い長い眠りを
続けるようになった。
 いつしか、実験も終わったのだが、
男は、目を覚ますことなく、
眠り続けた。
男は、実験室に置かれたまま、
放置された。
そして、
だれもいない実験室は、
何年もそのままになった。
男は、今も眠り続けているはずである。

2008年7月25日金曜日

73 眠らない男

その男は、今日も眠らなかった。
眠れない日が何日も続いているうちに、眠らないでも問題なく日常が送れるようになっていた。
もう一年も眠っていない。
はじめのうちは、眠らないでいると頭痛がしたり、周りのものが奇妙なものに見えたり、体がふわふわ浮かんでいるような感覚をおぼえたりしていたが、一ヶ月を過ぎたころ、突然、それがなくなった。
体の調子が良くなった。
むしろ、眠らなくなる前より、感覚が鋭くなったようである。
その他にも、運動神経も鋭敏になっている。
体の機能が向上しているのだから、いいことのようである。
しかし、男は、そのことを誰にも話すことはしなかった。
話さないほうがいいような気がしていた。
人間というものは、自分が持っていないもの、完全にかなわないものなどを相手が持ちはじめると、はじめは、いっしょに喜んでいるが突然、非難をし、攻撃をしてくることが多い。
人間は、突然変わってしまうものであるということは、それと似たようなことを味わったことがあった男には、わかっていた。
だれにも話すことなく一年が過ぎた。
感覚がさらに鋭敏になり、ものごとに対する見方、考え方も変わってきていた。
きれいに見えていた花がそれほどきれいなものではないことに気づいた。
もっと美しいものがまわりにあることに気づくようになってきた。
なんでもないものと思われていたものに美を見つけるようになっていた。
ひとつは、道路である。
日常歩いている道、足で踏みつけているアスファルトの道にも、表情のようなものがあるのである。
平らであることを当然としてみているアスファルトの表面のへこみや歪み、曲がり角などでのタイヤの後の微妙なつきかた。
太陽の照り返しや木々の影の落とし方、風に飛ばされるちり、車の通り過ぎるときのタイヤが踏みつけていく瞬間など、その瞬間、目に入る光の微妙な具合でアスファルトの表情が、いいのである。
目に見えるものと、見えないもの、その周りの空間に存在するあらゆるものがお互いに影響をおよぼしている状況を一度に同時に感じ取れるようになっていた。
それからは、周りの空間が気になりだした。
さまざまなところで、美くしいものにだけ気がとらわれるようになった。
日々の生活のためにする仕事にも気が入らなくなり、おろそかになるようになった。
そうしているうちに、会社も首になり、行くところもなくなり、やがて住むところもなくなってしまい、公園で浮浪者として暮らすようになった。
それでも、男は、美しいものにのみ興味を抱き続けていた。
美しいものを見ることこそが、人間の真の生きる目的だと考えていた。
男の感覚はさらに研ぎ澄まされてゆき、さらに、美しいものを見つけて続けていくようになった。
そして、それを公園を訪れる人々にいかに美しいかを話してまわった。
当然のことではあるが、普通の人間でしかない人々には、汚れきったぼろきれのようなものをまとった男が近づいてくることにさえ拒否反応を起こしていたが、まして、男の話す世界は、男にしか見えない世界であり、理解することができないものであった。
それゆえに、男の行動は、狂っているようにしか見えず、逃げ回っていた。 
男は、みなに理解してもらえずにいたが、それでも、自分の見えている世界を語り続けていた。
そんなことを続けているうちに浮浪者仲間からもうとまれるようになり、限られた食料も浮浪者仲間から嫌がらせによって、取ることができなくなり、日々、体力が落ちていった。
そのうち男は、一切の食べ物を口にすることもなくなり、ただ、公園の地べたに横たわっているだけになった。
 だれも男に関心を示してくれるものもなく、幾日もその状態が続いていた。
男は、いつしか、息を引き取っていた。
何年間も目を閉じることのなかった男のその目は、やわらかく閉じられていた。

2008年7月11日金曜日

72 卑怯者

 幼なじみのタケルと知恵は、大きな廃墟の前にいた。
大通りに面したその廃墟は、数年前まで、金持ちの年寄りが住んでいたところだが、いまは、だれも住む人もなく、荒れ果てていた。
赤い文字で大きく立ち入り禁止と書かれた木の板が門扉に吊り下げられていた。
「タケルやめようよ。なんかよくないよ」 知恵は、怖がっていた。
「だいじょうぶだよ。高校入試も終わったし、気晴らしにちょっと、見るだけだよ。中がどうなっているか見てみたいといったのは、知恵だろう」
「そうだけど・・・・・」
タケルは、門扉の横の小さな出入り口の取っ手を回して押した。
意外と簡単に開いた。
「いくぞ」
タケルも幽霊屋敷と言われているこの建物に入っていくのは、こわかった。でも、見てみたいという好奇心の方が勝っていた。
幼なじみの知恵の前で怖がっているのを見られるのが嫌なのでなんともない顔をして、入っていった。
知恵は腰が引けたようなへっぴり腰でついてきた。
夏の太陽は、傾きかけていたが、大きな庭には光が満ちていた。
どこにでもある庭が荒れ果てて、草が伸び放題になっているだけだった。
タケルはほっとした。もっと、おどろおどろしい感じを抱いていたのだ。
「ほら、なんともないだろ、知恵」
知恵は、あたりを見回しながら、うなずいている。
庭には、大きな木や石碑のもののようなものなど、元は花がたくさん植えてあったろうとおもわれるところなどがあった。
それらすべてが、草とつると覆われようとしていた。
荒れ果ててはいるが、お金持ちの家だったのは、よくわかる。
二人は、ゆっくりと正面にある大きな扉に向かっていった。
扉の前にたどり着くと、その扉は意外と大く威厳のあるものだった。
タケルが知恵を見て言った。
「入るぞ」
知恵の返事を待たずにタケルはノブを回して、引いた。
この扉も鍵はかかっていなかった。
以前にもだれかが進入したのかもしれないとタケルは思っていた。
その重い扉は長年風雨でさび付いて、引くのに結構力を入れた。
ちょうつがいの軋む音がおどろおどろしい感じを出していた。
扉からの光りが一気に中を照らし出した。
中は広く、金持ちらしいシャンデリアやさまざまな調度品があった。
物音ひとつしないそこには、外とは違う冷たく重い空気が満ちていた。
知恵は、タケルの袖をひっぱり、
「止めようよ。ここ変だよ」
と、泣き出しそうな顔になっていた。
「臆病だなあ、なんでもないよ。ただの大きな空き家だよ」
 タケルは、平気な風を装っていたが、心臓は激しく動いていた。
何かが普通の家とは違うことは、タケルも感じていた。でも、もう少しだけ、観たかった。
外の道路を車が走り去っていくのが耳に入ってきた。
「誰かに見つかるとまずいから、その扉閉めて」
「えっ、ここ閉めるの?」
「そうだよ。早く」
「でも、暗くなっちゃうよ」
泣きそうな知恵の顔が腹立たしくなり、
「いいんだよ、それでも、窓の明かりで結構見えるからだいじょうぶだよ」
と、叱るようにに言った。
知恵は黙って、その重い扉に体重をのせて押した。 再び、軋みながら扉はしまった。
扉の閉まる音が部屋中に広がり、辺りは、一気に薄暗くなった。
予想以上に暗くなった部屋にタケルは、扉を閉めなければよかったと思い直していた。 しかし、そんなことを知恵に悟られないように、大きな声を出した。
「よし、進むぞ」
二階へと上がる大きな階段が目立っていた。いかにも高そうなペルシャ絨毯が敷かれている。
その階段に近づいていこうとしたとき、何気なく、後ろを振り向いた。
(知恵?)
そこにいるはずの知恵がいなかった。
タケルだけがそこにはいた。
「知恵?どこ・・・・・?」
心臓が早鐘のように鳴り響き、体中から汗が出てきた。
タケルは恐ろしかった。
何が起こったのかわからなかった。
扉を開けて、知恵が出て行ったとは考えられなかった。
扉の軋む音は、知恵が閉めたときだけだった。
それをタケルは、見ていた。
知恵は、外には出ていない。
「知恵?どこにいるんだ?」
帰ってくる返事はなかった。
タケルの声がなくなると、辺りの静けさがいっそう怖かった。
(まずい)
タケルは、この状況がとんでもなく悪い事が起きているとわかった。
しかし、自分にはどうにもできない大きな力の起こしたことだとも悟った。
(ここにいるとあぶない)
入り口の扉に飛びつくと、思い切り押して、外に走り出た。
外の門扉の横のちいさな入り口も走り出た。
外にはいつものまばゆい光りと音が満ちていた。
外の空気を吸って、改めて廃墟の中の空気が普通でなかったことがわかった。
タケルの額には大粒の汗が噴出していた。体中が熱かった。
(どうしよう。知恵がまだ中にいる)
だが、タケルは足がすくんでしまい再び廃墟の中に入る勇気をだせなかった。
(どうしよう。知恵が中にいる。捕まっている)
門扉の前を行ったり来たりしながら、タケルの頭の中には、怖がりの知恵が泣き叫んでいる姿が見えていた。
(助けにいかなければ、知恵が泣いている)
でも、入れなかった。
怖くて、入れなかった。
大通りを行き交う車に乗っている女の人とタケルの目があった。
静かなその目はタケルを見続けていた。
一瞬のことだった。
その目は、一瞬で全てを語っていた。
臆病者、卑怯者、幼なじみの女の子を見捨てるなんて、男として情けないといっていた。
その後も通る人々の目もタケルを非難しているように見えた。
タケルは、その場にいることが耐えられず、走り出した。
必死に走った。
廃墟から少しでも離れたかった。
今、起こったことを忘れたかった。
なかったことにしたかった。
タケルはそのまま家に帰ると自分の部屋に閉じこもった。
恐ろしかった。
自分が知恵を置き去りにしたことが、恥ずかしかった。
知恵に申し訳なかった。
でも、怖くて助けにいく勇気はなかった。 
知恵は、あの後、家族から捜索願いが出され、警察が捜していたが、結局、見つからなかった。
タケルのところにも、警察が来たが何もいわなかった。

それから、何年かが過ぎた。
タケルは、廃墟でのことはだれにも話すことはなく、普通に暮らしていた。
 廃墟で泣き叫んでいる知恵の夢で、何度もうなされてはいたが。

2008年7月2日水曜日

71 ぼくが悪いんじゃない

 
 月曜日の朝も渋谷のスクランブル交差点は、人でいっぱいだった。
その中に今年入社式を迎えた木村五郎が真新しいスーツで身を包み歩いていた。
不機嫌な顔だ。
憂鬱な気持ちでいっぱいだった。
(ああ、今日もあの馬鹿上司に嫌味を言われるのか、顔も見たくないなあ)
五郎の足は、鉛のように重い足取りで会社に向かっていた。
まわりにも五郎と同じような表情をして歩いている人が大勢いた。
その中に派手な服装をした若い女がいた。
ぶつぶつと何か言っている。
その顔は、若い女の子の顔とは見えないほどの、疲れたような嫌味な顔をしていた。
女の体から、どす黒い雲のようなものがふわりふわりと出てきた。
それに気づく人はいない。
その雲のようなものは、漂いながら五郎の方に近づいて行き、五郎の体に吸い込まれていった。
あちらこちらの陰鬱な顔をした人々からもどす黒い雲が漂い出てきていた。
その雲は次第に集まり始め、大きくなっていった。
そして、その大きな塊となった雲は五郎の体の中へと一気に吸い込まれるように入っていった。
五郎の顔は、どんどん醜い嫌味なものになり、
暗くて深い淵の底のヘドロのような目に変化してきた。
顔つきも、どんどん険しく卑しくなってきた。
それに反して、どす黒い雲が体から出て行った者たちの表情は、すっきりとしたきれいな顔となり、はつらつと歩き始めている。
五郎は、だんだんとすべてのことが嫌になってきていた。
まわりにいる人たちをみると、怒りがこみ上げてきた。その存在だけで、無性に腹がたった。
(こいつら、ムカつく顔をしている、どいつもこいつも)
五郎は、まわりの人々を暗い淀んだ目でにらみつけ始めた。
そんな五郎に目を合わせる人はだれもいない。
その存在がないかのように人々は避けていく。
(こいつら、俺を馬鹿にしているのか)
横断歩道の青信号が点滅し始めた。
渡りきろうとした五郎の脇を五郎とは、反対側へと渡ろうとする女子高生の自転車が猛スピードで横断歩道に突っ込んでいった。
その女子高生のかばんが五郎のかばんにあたり、大きく跳ね上がった。
女子高生は、無言のままである。
  すぐに振り返った。文句を言いたい相手の姿は、すぐに人ごみの中に混じってしまい、どうすることもできない。
無性に腹がたった。
腹の中が熱くうごめき、体中の血が沸き立つのが自分でもわかった。
(こいつら、どいつもこいつも全員、殺してやる)
「うおおお」
空に向かって叫んでいた。
まわりの人々が驚いてみるが、そのまま通り過ぎて行く。
五郎は、強く決めた。
(殺してやる)
会社にいくのは、やめた。
(会社なんて、馬鹿らしい)
すぐに、包丁を買おうと決めた。
すごく切れ味のいいものを。
渋谷のどこに包丁が売ってるのかわからない。
五郎は、あちらこちらと探しまわったあげく、開店したばかりの東急ハンズに入った。
大型のナイフが載ったポスターが目に入った。
アウトドア用品コーナーへと走るようにして向かった。
気が急いてどうしようもなかった。
五郎本人も何に急いでいるのかわからなかったが、とにかく、急いで、刃物を手に入れたかった。
ナイフのショウケースの前についた。
たくさんのナイフがあり、どれが一番効果的に人を殺すことができるのか判断できずにいた。
ナイフを選びはじめると、汗が玉のように出てきた。
選ぶのもいらついてきて、どれでもよくなり、一番おおきなナイフに決めた。
一番、人を多く殺せそうだった。

ナイフをかばんに忍ばせて、街をうろついた。
どいつをはじめに刺し殺してやろうか、迷った。
一時間ほど、うろついていた。
ずいぶん歩いたので疲れ始めていた。
ハチ公前の信号待ちをしているとき、五郎の前に甲高い声で笑いながら携帯電話ではなしている女子高生が割り込むようにして入ってきた。
(決めた。こいつにしよう)
かばんの中に手を突っ込み、ナイフの柄を握り締めた。
タイミングをはかる。
信号が青になり、みなが歩き始めたとき、五郎はナイフを外に取り出し、女子高生の後ろにぴたりとくっついた。
五郎のかばんが女子高生のお尻に当たった。
女子高生は、痴漢でもみるような見下げるような表情で五郎をにらみつけた。
そのとき、五郎は、ナイフを女子高生の左わき腹から心臓めがけてつきあげた。
思ったほどの抵抗もなく、ナイフは、豆腐にでも差し込んだかのように、するりと柄まで入った。
女子高生と五郎だけが立ち止まっていた。
まわりの人々は、横断歩道を足早に過ぎ去ってゆく。
だれも気づいていない。
女子高生は、何か困ったような目をして五郎をみた。
純粋無垢な子供のような目だと五郎は思った。
そのまま崩れるように倒れていった。
ナイフも自然に抜けていた。
五郎はナイフを見てから、足元に倒れている女子高生を見た。
乾いた道路に黒っぽい血が広がり始めた。
赤い血も出てきた。
(血って、意外と粘りがあるんだなあ)
五郎は初めてみる大量の血を感心して見ていた。
(だれかに教えてあげようかなあ)
耳元で女の悲鳴が聞こえた。
頭が痛くなるほどの高音だ。
そのとき、五郎の体からどす黒いもやもやしたものが静かに出てきた。
天へと向かって流れていった。
だれもそれに気づいているものはいない。
五郎の意識が朦朧としてきた。
いきなり、後ろから突き飛ばされるように倒された。
背中の上にだれかが乗っかり、強い力で押さえつけているのがわかった。
(重いなあ。だれかこの重いものをどかしてくれないかなあ)
そのまま、意識がなくなった。

2008年6月14日土曜日

70 めっけもの

 池袋駅の地下通路で、柱に寄りかかり、行き交う人々を見ていた。
 ふと、気づくとずっと見ていたところ、行き交う人々の足元、床に茶色の財布が落ちているのが見えた。
 すぐにとりたかったが、人目があるので、様子を見ることにした。
 辺りにいる人を何気なく見ている風を装ってみたが、その財布に気づいているものは、いないようだ。あまり、ゆっくりしていると、誰かに取られてしまう。
 財布に近づき始めた。
 緊張する。財布の前まで来たところで、平気な風をしながら、いま、初めて、気づいた風をしながら、しゃがみ財布に手をかけた。
見ていたときよりも、厚みのある、ものだった。
 財布を手にし、落し物を拾った風に装いながら、交番を探している風に辺りをきょろきょろしてみた。
 そして、歩き出した。
なるべく自然に見えるように歩き出した。
 自分では、そうしたつもりだったが、そう見えていたのかは、わからない。 
数十メートルあるいて、地上に出た。
 交番には、行かず、街の人々の間にまぎれるようにしながら、財布を自分のカバンのなかにしまった。そのまま、あるき続けた。
 そして、小さな公園まで、あるいた。
その公園で、ベンチに腰掛、財布の中身を確かめた。二万三千円と小銭が入っていた。カード類など一切なく、だれのものだったかの持ち主とつながるようなものもなかった。
 おかねは、すべて、自分の財布に移した。 
うれしかった。だが、悪いことをしたという後ろめたさが心にどす黒く残った。
 財布は、捨てずに、カバンの中に入れておいた。 デザインが変わっていたので、気に入ったのだ。
このまま使うと持ち主にどこかで、きづかれかねないので、すぐに使う気には、なれなかった。まず、持ち主に会うことは、ないと分かっている。何十万分の一か何千万分の一かは、知らないが、ないだろうとは、思う。しかし、もしかしたらがある。
 持ち主に、気づかれたとき、そのときのことを考えると、いやだった。
 カバンの底のほうに入れた。
 そのうち、忘れたころに使おうと思っていた。
 そのまま、公園を出て、池袋の街にでた。
 ふところが暖かいので、寿司を食おうと、いきなれた回転寿司屋をめざした。

 回転寿司屋で腹いっぱい食べた。
 しばらく、腹ごなしに街をぶらついていた。
 いつしか、また、あの財布をひろった駅の地下街を歩いていた。 そして、拾ったところに差し掛かって、落ちていた場所を見てみると、そこには、また、財布が落ちていた。また、だれも、気づいていないようである。
 私は、また、そしらぬ風をよそおいながら、財布に近づくと、また、その財布を何気なく拾い上げた。そのまま、歩き続けた。
 やはり、緊張は、していた。でも、一回目よりは、落ち着いていた。慣れてきたのかもしれない。
 その財布を持ち、また、一回目と同じ公園に向かった。
 そこで、同じように財布の中身を調べてみた。二万三千円。一回目と同じ金額。
 面白いものだ。
 一日に、同じ場所で、二回も財布を拾い、しかも、中身も同じ金額と身分証明は、何一つない。まったく同じ。不思議なものであった。
 こんなこともあるものなのか。変な気持ちにもなったが、うれしかった。
一日で、合計で四万六千円の利益である。ただ、歩いているだけで。 その財布も個性的なデザインなので、やはり、捨てずにカバンの底のほうに入れた。
 そして、気分よく、街にでた。
 まだ、腹は、いっぱいなので、今度は、服を買うことにした。よく行く店に入った。
 安売りの店しかしらない。お金が、入ったとはいえ、高い服を買おうと考えることが、なかった。
 そういう、発想には、ならないらしい。
 高い店の敷居は高い。やはり、行きなれた庶民の店である。
 シンプルなデザインのシンプルな色のものを選んで、買った。派手なものを、着る勇気がないのだろう。
 店を出ると、なぜか、帰りたくなってきた。満足したからかもしれない。
 駅へと向かった。
 あの地下通路を通った。帰り道となる地下通路。
 やはり、財布の落ちていたところが、気になった。なんの根拠もないのだが、また、落ちているのかもしれないと思っていた。
 行ってみると、また、あった。
 おかしい。
 三度も、続くはずがない。なにか、悪いことにはめられたのかもしれないと思い始めていた。心臓が、変な動きをしているような気がしていた。
 財布の中身が同じ二万三千円だったら、確実にはめられている。 確認しなければ、ならない。
 私は、駆け寄るようにその財布に近づき、財布の中身を見た。やはり、二万三千円。まったく同じ。
 私は、嵌められている。確信した。
 だれかが、ここで、私がこうしているのを見ている。私を監視していることになる。
 私は、辺りのどこかにいるであろう監視のものと目が合うのが怖くて、財布から視線をはずすことができずに、財布に視線をむけたままの状態で固まったように、していた。考えていた。この状況をどうクリアしていくか。
 決まった。
 いきなり、走り出した。全速力で走った。人にぶつかりながらも、走った。
 駅の外に出て、街に紛れ込もうと。
 私は、他のことは何も考えられなかった。
 誰かが、私は、追いかけている、それから、のがれなければならない。
 走りに走った。
 駅を出てからも、走ることをやめずに、走り続けた。路地から路地へと街をぬうように走り続けた。
 すぐ、後ろに恐ろしい者が居るような気がして、後ろを見ることはしなかった。
 どのくらい、走り続けたのか。苦しくて、苦しくて、身体中がジンジンと変な感覚がしてきたところで、走ることをやめた。もう、足が動かない。
 後ろを振り返ってみた。それらしい人は、いなかった。
 それからは、ゆっくりと駅からなお遠ざかるように、歩いた。
 自動販売機で、スポーツドリンクを買い、飲みながら、歩き続けた。
 池袋駅から、三つ目ぐらいの駅で電車に乗った。
早く、自分の家に帰りたかった

 やっと、アパートにたどり着いた。
 散らかり放題の部屋の中の、万年床の上に大の字に身体を伸ばして、横たわった。すごく疲れていた。
 すぐに、深い眠りに入っていった。
 目が覚めたのは、窓から入ってくる光が、まだ、薄暗い、朝方のことだった。最初に、頭の中に浮かんできたことは、昨夜の財布のことだった。
 すぐに、カバンの中にまだ財布がはいったままであることを思い出した。
 処分しようと考えて、カバンを開けてみたが、
中に財布が見当たらない。底のほうにいれたとはいえ、それほど大きなカバンでない。すぐに見つかるはずだがない。二つ入れたはずの財布が、二つともない。
 なにか嫌な気分になってきた。あるはずのものがないということは、なにかが起きたということ。
 アパートにたどり着くまで、自分の身から離していないカバンの中にないということは、盗まれているわけではない。落とすことも考えられない。カバンの底に入れていた財布だけが、それも、二つとも、落とすことはありえない。
 他のものは、何ひとつ、なくなっていない。
 残るは、私が、寝ている間に、誰かがこの部屋に入ってきて、盗ったか。
 財布が、なぜだかは、わからないが消えたということだけである。
どちらにしろ、気味悪い。
 飛びはねるように、動いた。入り口のドアの鍵を確認した。鍵は掛かっている。チェーンも掛かっている。
 起こりえる残ったことは、カバンから二つの財布が消えたということになった。
 このことをどう理解していいのかわからなかった。
 もしやと思い、自分の財布に入れた四万六千円の使った残りのお金を確かめた。やはり、ない。いつもの、自分のさびしい財布の中身だけである。
 なにか呆けたように、座り込んでしまった。体中から力が、抜けたようになった。拾ったお金がなくなったからではない。
 昨日のこと、財布を拾ったことが夢であったのではないかと思い始めていた。
 携帯の日付を見てみた。昨日となる日付が今日となっていた。
 しかし、夢ではないような気もしていた。

2008年5月22日木曜日

69 虫眼鏡の女

大きな樹木が多くある公園でその女にあった。
公園の端にあるお堂の脇の地面に這いつくばるようにして、
大きな虫眼鏡で小さなコケを熱心に観ていた。
両膝を湿った土につけている。
ズボンは、汚れている。
女は、ぜんぜん気にしていないようである。
私が、その女の後ろでその珍しい行動をしばらく見ていると、
私に気づいて、話しかけてきた。
「コケを観るのは、楽しいですよ。あなたもどうですか?」
満面の笑みで大きな虫眼鏡を私に、差し出した。
その笑みが、楽しさを証明しているように思えた私は、
しゃがんで、虫眼鏡を通して、コケを観てみた。
「 森が存在しているでしょ?」
女の声は、自分の興味あるものに、興味を持つ人間が
現れたのが、うれしいのかのような弾んだ声だった。
そのとおりだった。
そこには、私が知っているコケのいつもの風景とは、違うものがあった。
都会に暮らしている人々は、自然が恋しいといっているが、
このコケ観賞をすることを勧めたくなるほどのものが、虫眼鏡の
奥には存在していた。
小さなコケが狭いところに、身を寄せるようにしている生きているだけなのだが
虫眼鏡を通すことで、そこは、深い山となるのだった。
コケの一つ一つが、森の中の大木に見えてくるのだ。
小さなコケの形がこれまで見たことのない新種の植物のように見えてきていた。
文明が始まる前の恐竜の時代の植物群のようにも見えた。
私はいつしか腹ばいになって夢中で虫眼鏡の奥に見えるコケの世界に入り込んでいた。
目の位置を地面に近づけるほどに、コケの世界がリアルに感じることができた。
大きな樹木が立ち並ぶ古代の自然の中にいる。
樹木の間をぬうように首長竜が幾トンもある身体をゆらしながら、
歩いているのが見えているような気がしていた。
「すごい!」
思わず、感嘆の言葉が私の口から出ていた。
私は、女にこの感激を伝えようと振り向いた。
そこには、女はいなかった。
目の前にはうっそうと茂った森があるだけだった。
私がたった今まで虫眼鏡で観ていた世界が目の前に現実の世界としてあった。
私は、コケの森の中にいた。
小さくなっていた。
自分の身にとんでもないことが起こっている。
心臓がありえないほどの鼓動を打ち鳴らしていた。
体中を血液が駆け回っていた。
上を仰ぎ見るとそこには、大きな樹木。
そして、その樹木のもっと上、そこには、空を覆い隠すほどの
大きな虫眼鏡を覗き込んでいる大きな目。
女の目があった。
ギョロギョロと気味悪く動く目玉。
私を観ているその目は、薄気味悪く笑っていた。

2008年5月16日金曜日

68 そこに存在しているもの

山の中をさまよい続けた。
自分がどこにいるのか見当がつかなくなって、数時間がたっている。
もう、日が暮れてしまった。
なんどもキャンプに来ている山だったのだが、気づいたら、
見知らぬ風景の中にいた。
最初は、簡単に戻れると考えて、おおよその方角を目指して、進んでいたのがいけなかった。
進むにつれて、不安が次第に深くなっていった。
行けども行けども、見慣れた風景には、たどり着くことができなかった。
一度は、来た道を引き返したりもしたが、余計に自分の向かっている方角が把握しきれなくなってしまった。
いつも、自分ひとりの行動をするので、私がここにいることもだれもしっていない。
助けにだれかがくることもない。
そのことが頭の片隅をよぎると、恐怖が体中を駆け巡った。
死というものを日常身近にあるものと考えてない私は、すぐ近くに近寄ってきている死を
感じていた。
立ち止まると、静かな山の中で独りを感じてしまい、死を意識してしまうので、立ち止まることをしなかった。
この休憩をせずに歩きつづけたものが、悪かった。
休憩できなかったのは、身体でけではなかった。
特に、頭が休憩できていなかった。
その頭で、解決策を考えているのだから、いい案が見つかるはずがなかった。
私は、どんどん山の奥のほうへ奥のほうへと立ち止まることをせずに、突き進んでしまった。
その結果が、日が暮れた山の中で、一人、不安を抱えた状態で闇の中で、身を縮めて、日が昇るのを待ちに待っている。
永遠のような気がしてくる闇。
日常の中では、山は静かなものだと感じていたのだが、闇の中にある山の中で一人いると、山はさまざまな音で、満ちていた。
夜の山は、静かではなかった。
風の音、葉の揺らぐ音、聞いたことのない鳥のような鳴き声、何かが近くにいるような気配、枯れ枝らしきものが落ちる音、私の五感は、フル稼働していた。
稼動しすぎたのか、私は、見てはいけないものをみてしまったのかもしれない。
そこに存在してはいけないものが、私の目の前に存在していた。
宇宙。
果てのない広大な宇宙が、私の目の前に延々と広がっていた。
鼓動している宇宙、生きている宇宙、想像を絶する壮大な力が、そこに内在していることを知った。