2008年3月8日土曜日

57 思い

その女性は、いつも、同じ時間に桃のジュースを買いに来た。
男は、いつも、その女性を見ていた。
その女性を見ると、元気がでて、気分が軽やかになり、幸せになれた。
いつしか、女性に恋をしていることに、気づいていた。
しかし、男は、女性と仲良くなることは、できないと知っていた。
なぜなら、男は、女性がいつもジュースを買う自動販売機そのものだったからである。
どういうわけか、鉄で作られている機械の自動販売機に男の心が存在していた。
心が存在というよりか、むしろ、自動販売機自体が、動くことは出来ないが、一つの生命体として、存在していた。
男の記憶には、以前の記憶があるわけでもなく、突然、自分というものに意識をもったときには、もう、自動販売機であった。
いつから、そこに、自動販売機として、存在しているのかも男自体もわかっていない。
ある日、突然として、男は、自分が自動販売機であり、そこに、24時間365日、存在しつづけていることに気づいた。
苦悩というものもなく、ただ、自分の目の前をさまざまな人が通り過ぎるのを見ていただけである。
人間というものを認識もしていた。
どこで、得た知識なのかも分からないが、男は、人間のことも、社会のことも、よく理解していた。
そして、自分がどういう存在なのかも理解していた。
感情というものが、ないものでもなく、鉄でできている自分の身体に傷をつけられると、痛みもあるし、ジュースの選択ボタンを手荒に押されると、怒りも感じていたが、どうすることもできないことも理解していた。
ただ、すこし、できることといえば、自分に対して乱暴をしたものが、再び、来たときは、ジュースを取り出し口に出す前に、缶を少しだが、へこまして形をいびつにしたり、選択したジュースでないものを出したりして、うっぷんを晴らしていた。
そのような日常を過ごしているときに、その女性が、現れた。
いつも、同じ時間に、同じところで、同じ姿勢で自動販売機によりかかるようにして、同じ桃のジュースをおいしそうに飲んでいた。
男は、女性が自分に寄りかかってくれているのが、とても、うれしかった。
女性は、通りを行き交う人々を見ながら、ゆっくり、飲んでいた。
なぜだか、男は、女性の心の中が見えていた。
女性の日常、苦しい出来事や悲しい思いが、男には、理解でき、女性にやすらぎを与えてやりたいといつも思っていた。
女性が、自分の悩みをだれにも相談できずに苦しんでいるのをみて、男もまた、女性の苦しみを共有するかのごとく、そのことで悲しんでいた。
その思いが、いつしか、女性に恋心をいだくようになっていた。
男は、神というものを信じてはいなかったが、女性の苦しみを少しでも軽く出来るものならばと、神に女性にやすらぎというものを与えてほしいと、祈り続けていた。
その日も、男は、女性が来る時間が近づいているので、そわそわして、待っていた。
遠くのほうに、女性がこちらに向かってくる姿が見えたとき、男の身体が、ゆらりと傾いた。
男である自動販売機が、数人の男たちの手によって、撤去され始めた。
自動販売機は、簡単に、トラックに載せられてしまい、トラックは、すぐに走り出し、
女性のすぐ横を通り過ぎていった。
男は、通りすぎてゆく女性の横顔をみながら、つぶやいた。
「死なないでくれ。」
ゆれるトラックの中で、男は、泣き苦しんでいた。
女性に何もしてあげることもできないことを、悲しんでいた。
そして、女性がこれからもひとり、苦しみつづけていくことを悲しんでいた。
その後、男は、解体工場に運ばれた。
巨大な圧縮プレスで、じわりじわりと押し潰され、次第に遠のく意識の中でも、最後まで、女性の幸せだけを祈り続けていた。