2008年4月9日水曜日

60 ある芸術家の日記 1

ある芸術家の日記

9月29日 土曜日 雨のち曇り

昨夜は飲みすぎた。
居酒屋で飲んだ後、心さびしいのか、もう少し、飲みたかったので、スナックに入った。
ニューホンディという名の店である。
この日で三度目。
そんなに楽しいところでない。
若い子がいるわけでもなく、私を一人の客として、扱ってくれている感じもうけないところである。
でも、他に行くところもないので、入り口のドアを開けた。
金曜日の午後9時ごろ、客が大勢いると考えていたが、予想どおりである、ボックスもカウンターも客で詰まっている。
入るのをやめようか、躊躇した。が、
「いらしゃいませ」
女性店員の大きな声で、仕方なく、一歩、店の中に足を踏み入れた。
ひとつ空けてもらったカウンターの席に着く。
フィリピン娘?  いや、おばちゃんだが笑顔がやさしい女が私に近づいてくる。
名前は、忘れたが、私と同じ年であることは、この店に一度目に来たときに聞いていた。
同じ年、同級生というだけで、今のわたしには、うれしい。
親近感を持っている。
騒々しい店内で、彼女は、笑顔で注文を聞いてくる。
居酒屋でずいぶん飲んできたので、何もほしくはなかったが、とりあえず、ビールをたのんだ。
「アサヒだよね」
彼女が聞いてくる。
私の好みを覚えてくれているだけで、私は、うれしい。
うなずく私。
彼女は、ビールを私に注いで、二言三言、しゃべると、すぐに、他の客のところへといき、はしゃいで、喋っている。
いつもの風景、空虚を感じながら、ビールを一口飲む。
味もしない。
目の前の高い位置にキープされている酒がズラリと並んでいる。
見るだけで、吐き気がしてくる。
その棚に、薄型のカラオケモニターが設置されている。
私は、そこに移っている映像に目をやっている。
文字が反転しながら、映像が変わっていくのをぼんやりとみている。
私は煙草をくゆらしながら、嫌な何かが私を押しつぶすように、包み込んでいるのがわかる。
普通のこういった店では、新たに客が入ってくると、店の女の子が、他の客を相手していても、新しい客につくのだが、私には、つかない。
嫌われているのだろう。
嫌な雰囲気を漂わせているからだと自分では、思っている。
それに、私は、他の客のように乱痴気騒ぎ的なことはしないで、普通にして、ジョークをいうわけでもないので、扱いづらいのだろう。
私は、まわりの乱痴気状態の中でポツンと一人、座っている。
まわりの客を見ることもしない。
見ても、アホまるだしの行動をしている人間を見ると、余計に嫌な気持ちになってしまう。
ただ、カラオケモニターを見ながら、煙草とビールを交互に飲みながら、時間を過ごしてゆく。
すぐに、帰ろうと思うのだが、立ち上がるのも面倒くさいので、そのままでいる。
そうしているうちに、2時間ほどして、店の女性に両手の人差し指で×しるしをつくってみせる。
お勘定する。
ビールを2、3本と小さなお通し、店にひとりでいて、3800円、高いものである。
私は、店を出る。
フラつく足でなんとか立っている。
真っ暗闇の空を見ながら、大きく深呼吸する。
『辛いなぁ』
つくづく思う。
人生とは、こんなものなのか。
何度もこころでいい続けてきた言葉を、また、繰り返している。


10月2日 火曜日 曇り

 南池袋公園に深夜0時過ぎに入った。
灯りが少ない暗い公園の中には、幾つかのベンチが見える。
あちらこちらにあるベンチでは幾組かのカップルが身体を寄せ合い囁きあっている。
ベンチ脇の暗闇にある植え込みの草や葉が動いている。
カップルたちがこれからしようとしていることを覗き見しようと潜んでいる者たちがいるのだろう。
盗撮をしようとしているものもいるのだろう。
カップルもそれを承知している。
どちらにしても、ここにいる者たちは普通の人たちとは、何かがことなる人たちである。
公園の端の方では、ホームレスたちがダンボールで今日の寝床を見事に完成させて眠っている。

私は、端にある朽ちかけたベンチに腰掛けた。
空を見あげる。
今夜も、暗闇だけである。
煙草に火をつけ、くゆらしながら眼を閉じていると、
激しい息遣いが、となりのベンチから流れてくる。
カップルが我慢できずに始めたようだ。
周りの植え込みがざわつき始める。
今日は、ギャラリーが多いようだ。
私は、公園のほぼ中央にある噴水池へと近づいてゆく。
コンクリートで固められ、廃墟のように存在している池。
夜、噴水は止められ、静かにしているのでよけいにそう感じられてくる。

私は、噴水池の端に腰掛ける。
手を池の中に沈ませる。
冷たい。
しばらくそのままにする。
冷たい水の心地よさが手を伝い、身体にじわりと浸み込んでくる。
数時間でも、こうしていたい。
だが、手を池から引き抜き、服に水分を移していく。
冷たくなった手で頬を包む。
手にはまだ、池の水の清いものが感じられた。
私は、財布から、一万円札を一枚取り出し、
沈黙している水面にふわりと浮かべる。
短くなった煙草を深く吸い込み、浮かぶお札に大きく吹きかける。
お札は、私のもとを離れていく。
ここで何をしようと、私に気を向けているものはいない。
煙草を踏み消し、そのまま、私は、漂うように公園をでていく。

公園の外には、現実の時間が待っていた。


10月10日 水曜日 曇り

立ち飲み屋の枡屋に入った。
夜8時ごろだった。
池袋の中で自分が、一番入りやすいところだ。
自分と同じ人間たちが集まっているところ。
浮浪者に近い人から係長くらいまでの人々しか来ないようなところ。
私は、勝手にこう決め付けている。
満杯状態の日が多いこの店、今日は、5、6人しかいなかった。
黄色い派手な短パン姿の男、ジョギング中の感じでもない緩みきった身体で、なんでそんな格好でいるのか。
店を去っていくスーツ姿の男に深々と頭を下げている。
私は、男の顔を見ることはしない。
眼の端でその男の行動を見ながら、私は、店の中央付近のカウンターに近づいていく。
新顔の店員が、この店には似つかわしくないバカ丁寧な調子で注文をとりにくる。
酒と柿ピーを頼む。
290円くらいだったような気がする。
酒と柿ピーを両手に持ち、カウンターと反対側にある壁についたカウンターの端にいく。
入り口に近いところ。
私の好きな定位置。
この位置は、目の前の壁が畳の一畳ほどの大きな鏡がすえつけられているし、そとの人々が行き交うのがよく見える。
そとの人々を肴に酒を飲み、鏡にうつる店内の人々をチラチラ見ながら煙草をふかし、と便利な位置である。
今日も、チビチビ飲みながら、外を行き交う人々を見ていた。
異様に短いスカートにハイヒールをカタカタ鳴らしながらだらしなく歩く若い女。
その姿には、もったいないきれいな白い足を眼で追っている男たち。
足早に過ぎていくリュックをしょったまじめそうな若い男。
手をつないでうれしそうに目を輝かせて、彼氏を見ながら歩いている少女。
いつもの街の風景。

そこに、いつもとは少し異なる空気の人間が現れた。
細く白い杖で足場を確かめながら、そろりそろりと歩を進める目の不自由な若い男。
この街に慣れていない。
道に出してある看板をコツコツたたき、停めてある数台の自転車をたたき確かめながら、歩を進めている。
自転車に本人のカバンか何かが当たり、数台の自転車は、ドミノ倒しとなる。
気づいた本人が自転車を起こそうとしている。
このごみごみしたところでは、しょうがない。
杖を下に置き、自転車を起こそうと難儀している。
立ち話をしていたガラの悪い二人の男が、それに気づいて近づいていく。
二人の男は、自転車を起こし、目の不自由な若い男の手に杖を持たした。
目の不自由な若い男は、二人の男になんどもお辞儀をして、駅のほうへと歩を進めていく。
二人の男は、また、煙草をふかしながら、何事もなかったように普通に話している。
ちょっと、心が緩んだ。
私は、グラスに残った酒をいっきに飲み干し、外に出た。
目の不自由な男を捜した。
すぐ先で、信号待ちをしていた。
こういう人間がこの池袋のような繁華街でどういう行動をするのか知りたくなった。
10メーターほど離れて、後を追った。
煙草をすいながら、その男を直接見ることはせずに、目の端でとらえながら、ふらふらと後を追った。
男は、信号を渡ると駅の東側へとつながる地下道のほうへと進み始めた。
帽子専門店の前を過ぎ、300円飲み屋を過ぎ、ゆっくりゆっくりと歩を進めている。
私は、信号を渡らずに、いる。
近づきすぎるのはよくない。
目が不自由でも人間の五感は、退化しているとしても、何かの違和感を感じて、こちらの存在を知りえるかも知れないからである。
男の身体を見ることもしない。
目の端でとらえているのは、男の身体の輪郭程度である。
私は、ゆっくりついていく。
地下道の近くまで、来た。
その男は、立ち止まった。
くるりと向きを変えると、今、来た道を戻り始めた。
はっきりとはしないが男は、わずかに笑っているように見えた。
ゆっくりゆっくりと戻っていく。
私が後を追い始めた信号まで戻ってきた。
立ち止まった。
また、向きを変え、地下道のほうへと向かう。
ゆっくりゆっくりと進んでいる。
私は、少し距離をとり、煙草に火をつけた。
その時、クラクションが鳴り響いた。
私の後方である。
そのほうに目をやると、赤信号で道路を横切っている女にクラクションが鳴らされていた。
目を男のほうに戻した。
いない。
辺りに目を配るが男はいない。
足の動きを少し速くして、男のいた辺りに近づいた。
右も左も前、後、どこにもいない。
私は、足を止めることはせずに、そのままの歩調で地下道に入っていった。
ここにも、姿はない。
あの男の歩くスピードなら、ここに入ったならば、ここで追いつけるはずであった。
地下道の反対側の出入り口まで、見渡すが男はいない。
見失った。

何か変な感じを受けた。
私は、歩き続けた。
周りと歩調を合わせながら。
地下道を抜け、駅の東側の街へと入っていった。
そのまま、一時間ほど、街をうろついた。
単なる尾行の失敗。
そう思う。
違うような気もする。

59 反応

遅くまでの残業を終え、電車に飛び乗ったのは最終の便だった。
座席につくと、すぐに寝入ってしまった。
アパートのある池袋駅のアナウンスで目覚め、カバンを両手に持ち、飛び降りた。
駅の西口をでたところで、カバンの手に伝わる感触がなにやら普段と違う気がして、カバンをみた。
自分のカバンでない。
色は、自分のと同じ黒色だが、形が全く違うものだった。
しかも、反対側の手には、いつもの自分のカバンをしっかりと持っている。
明らかに、私は、隣のひとのカバンを持ってきてしまったということをあらわしていた。
私は、すぐに、駅に引き返した。
駅の改札の駅員の傍までいってから、カバンを駅員に渡すのをやめた。
見も知らぬ他人のカバンの中身を見てみたいという衝動に駆られたのだ。
だれのカバンもたいして、変わりのないものであることは、承知であるが、見てはいけないものだからこそ、見てみたいという感覚に私にもある善の心は、片隅に押しやられていた。
急ぎ足で、駅を出ると、西口公園のベンチに腰掛けた。
まわりの人間が私を見ているような気がして、顔を上げて周りを見ることが出来ずに、うつむいていた。
しばらくすると、うつむいた姿勢のままでいることに身体がきつくなり、また、この姿勢のままでながくいることは、まわりの人々からすると、不審の体勢にみられるのではないかと、考えられてきた。
それで、なるべく、さりげなく見えるように、ゆっくりと、顔を上げ、まわりを見渡すと、夜、遅い時間だけれど大勢の人が、まだ、いたのだがだれ一人として、私を見ているものはいなかった。
私の考えすぎだった。
ここは、東京だ。
身近にいようと、となりの人に関心を示さないのが、東京である。
ましてや、故意にないにせよ、私が他人のカバンを持っていることを、この場にいる誰が、知っていようか。
私は、自分が疑心暗鬼になりすぎていたことを、自分で情けなくなった。
なんて、気が小さい人間だと。
それでも、私は、その見知らぬカバンを開けるときに、大事なものを探す風に装いながら、カバンを開いている自分がいることのに気づいていた。
どこまでも、臆病な人間である。
つくづく、思った。
開いてみたが、予想どおりである。
たいして、面白いものがあるわけでもなく、仕事のものであろう、幾枚かの書類と小さなメモのような走り書きなどが、しわくちゃに入っているだけだった。
ためしにと、メモの一つを開いてみると、そこに、書かれていることに、私は、胸を何かにつかまれてしまったかのような気持ちにさせられた。
そこには、“いま、このカバンをお持ちのあなた、私は、見ていますよ。ずっと。”
そう書かれていた。
ただ、それだけである。
どうせよ!でもなく、返せでもなく、見ているとだけある。
要求があるのではないことに、怖さがあった。
自分が今、だれかに、この場を見られているのかと思うと、急に身体が熱くなり、顔を上げることができなくなった。
自分を見ている人間と目が合ってしまいそうで怖かった。
私は、しばらく、そのまま、動かずにいた。
そして、この場を切り抜けるには、どうしたらよいのかを混乱している脳で考えていた。
答えが出た。
逃げることだった。
今なら、私がだれかもしらないはずである。
私は、いきなり、走り出した。
その見知らぬカバンは、その場にのこしたままである。
走りに走った。
夜の池袋を走り続けた。
人が少ないほうへと走り、誰もいない公園の中へと走りこんでいった。
後を追いかけてくるものはいない。
周りにも、だれもいない。
急に走るのをやめたら、身体中から、汗が噴出してきた。
公園の水道で、水を大量にかぶるように飲んだ。
すこし、落ち着いてきた。
暗い公園のベンチに座り、カバンのことを再び、思い出してみた。
ただのいたずらだったような気がしてきた。
見事にひっかかったというところだろう。
西口公園では、このカバンを仕掛けた人間がいたのかもしれない。
さぞ、私の行動をみて、楽しかっただろう。
そんなことを思いながら、煙草に火をつけ、大きく煙りを吸い込んだところで、
正面のベンチの横に、人が座っているのに気づいた。
暗闇に目が順応してきて、はじめて、気づいた。
この前にいる男は、私をずっと見ていたことになる。
煙草にむせながら、男を見た。
男は、私を見続けている。
この男は、もしかしたら、あのカバンに仕掛けた男をグルなのではないか。
そう思うと、すぐに、ベンチから腰をあげ、公園を出た。
道には、人がいなかった。
こうなると、人が少ないことに、恐怖を感じていた。
背後から、おそわれるのではないかと、背中の皮膚がぴりぴりと痛みをかんじるほど神経は過敏になっていた。
私の、歩く早さが、次第に早くなっていった。
指にさしていた煙草を投げ捨て、そして、遂には、走り出し始めた。
後ろを見ることをせずに、ただ、人が大勢いる繁華街へと走っていた。
人ごみに安心があると考えていた。
にぎやかなところへと、たどり着くと、居酒屋に、とびこむようにしてはいっていった。
何事もなかったように、カウンター席に座り、生ビールを注文して、一気に飲み干した。
何かが、ビールによって洗い流されたような、爽快な気分になってきた。
そのときになって気づいた。
私は、ビビリ過ぎていたと。
なんでもないことに私は、気をつかっていたと。
その日、私は、ひとりで、大いに飲んだ。
一人なのだが、自分の中にいる自分と大いに語り合っていた。
好きな手羽先を大量に食べながら。