2008年4月30日水曜日

66 男は、そこにいた

池袋駅の地下通路。
中年の男が、行き交う人々に向かって喋っていた。
「北から茶碗が落ちてくる」
「・・・・・・・・」
「牛は、足が痛いんだ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ノートを貸してくれない?」
「・・・・」
一瞬、立ち止まり、男が何を話しているのか、聞こうとする人もいるが、その内容が支離滅裂なことに気づき、精神に問題がある人とは、かかわりを持たないようにと、すぐに忙しそうに立ち去ってしまう。
そこに、男が存在していないかのように、人々は、通りすぎていく。
男は、なおも言葉を発していた。
「あの花、僕が植えたんだよ。きれいだよ。」
「・・・・・・・・・・・」
「車の中、だだだだだだ。」
「・・・・・・」
男は、視線をあちらこちらに向けながら、足は、何かのリズムをとっているように大きく、上げたり、下げたりと繰り返し始めた。
次第に、男は喋ることはしなくなり、身体を動かすことに意識を集中しているようだった。
足を踏み鳴らし、天井を見、くるくると小さく円を描くように、歩き始めた。
前方を見ずに、足元だけを食い入るように見ている。
だれも、男を見ようとしない。
通り過ぎていく人々。
男は、周り続けている。
ふっと、男の姿が消えた。
その場から、男が突然、消えて、なくなった。
しかし、だれも気づいていない。
でも、私は、見ていた。
男は、消える瞬間、私の目を見た。
射抜くような鋭い目。
あの男は、キチガイじゃない。