2008年5月22日木曜日

69 虫眼鏡の女

大きな樹木が多くある公園でその女にあった。
公園の端にあるお堂の脇の地面に這いつくばるようにして、
大きな虫眼鏡で小さなコケを熱心に観ていた。
両膝を湿った土につけている。
ズボンは、汚れている。
女は、ぜんぜん気にしていないようである。
私が、その女の後ろでその珍しい行動をしばらく見ていると、
私に気づいて、話しかけてきた。
「コケを観るのは、楽しいですよ。あなたもどうですか?」
満面の笑みで大きな虫眼鏡を私に、差し出した。
その笑みが、楽しさを証明しているように思えた私は、
しゃがんで、虫眼鏡を通して、コケを観てみた。
「 森が存在しているでしょ?」
女の声は、自分の興味あるものに、興味を持つ人間が
現れたのが、うれしいのかのような弾んだ声だった。
そのとおりだった。
そこには、私が知っているコケのいつもの風景とは、違うものがあった。
都会に暮らしている人々は、自然が恋しいといっているが、
このコケ観賞をすることを勧めたくなるほどのものが、虫眼鏡の
奥には存在していた。
小さなコケが狭いところに、身を寄せるようにしている生きているだけなのだが
虫眼鏡を通すことで、そこは、深い山となるのだった。
コケの一つ一つが、森の中の大木に見えてくるのだ。
小さなコケの形がこれまで見たことのない新種の植物のように見えてきていた。
文明が始まる前の恐竜の時代の植物群のようにも見えた。
私はいつしか腹ばいになって夢中で虫眼鏡の奥に見えるコケの世界に入り込んでいた。
目の位置を地面に近づけるほどに、コケの世界がリアルに感じることができた。
大きな樹木が立ち並ぶ古代の自然の中にいる。
樹木の間をぬうように首長竜が幾トンもある身体をゆらしながら、
歩いているのが見えているような気がしていた。
「すごい!」
思わず、感嘆の言葉が私の口から出ていた。
私は、女にこの感激を伝えようと振り向いた。
そこには、女はいなかった。
目の前にはうっそうと茂った森があるだけだった。
私がたった今まで虫眼鏡で観ていた世界が目の前に現実の世界としてあった。
私は、コケの森の中にいた。
小さくなっていた。
自分の身にとんでもないことが起こっている。
心臓がありえないほどの鼓動を打ち鳴らしていた。
体中を血液が駆け回っていた。
上を仰ぎ見るとそこには、大きな樹木。
そして、その樹木のもっと上、そこには、空を覆い隠すほどの
大きな虫眼鏡を覗き込んでいる大きな目。
女の目があった。
ギョロギョロと気味悪く動く目玉。
私を観ているその目は、薄気味悪く笑っていた。