2008年2月15日金曜日

そのひと

一日中、降り続いた雨の日だった。
夕暮れの池袋の駅前は、たくさんの傘が行きかっていた。
端のほうにその女性は、静かに立っていた。
大きな黒い傘を差して、黒くて長い髪に黒いコート、黒いブーツと全身を黒で統一された装いで、いた。
すらりとした長身に、端正な顔立ちは、モデルのように見え、まわりの人々とは、かなり、雰囲気も違い、目立っていた。
しかし、だれ一人として、その女性を見ている人は、いなかった。
いつもなら、これだけの美貌の持ち主がいると、まわりの人々は、遠目から見ていたりするものだが、近くにも、遠くにも、だれも、彼女を見ているものは、一人もいなかった。
少し、離れた人ごみの中で、私、ひとりだけが、見ていた。
その女性は、横断歩道を渡って、駅に入ってくる人々を見ていた。
周りの人々は、流れるように歩き動き変わっていったが、その女性と私だけは、一つところで、動かないでいた。
幾分かが、過ぎた。
彼女が、振り向いた。
私の目を見ている。
私が、見ていたのを知っていたかのような目でみている。
私の目を見たまま、私にゆっくりと近づいてくる。
私の目の前に立ち、私の目を覗き込む。
「私を、見てるの?」
不思議そうに、私に問いかけてきた。
うなずく私に、彼女は、うれしそうな笑顔をした。
何かきつい一言でも、言われるのかと思っていた私は、その笑顔に驚いていた。
彼女がしゃべりだした。
彼女が言うには、自分は、人に見られることが、いままで、なかったということらしい。
美人のほうに入ると、自分でも思っていたのだが、どうしてか、だれも、自分に関心を示してくれないことに、悩んでいたらしい。
それで、私が自分のことをずっと、見ていたことが、とても、うれしいといった。
そのまま、しばらく、いろいろなことを話した。
別れ際に、お友達になってほしいと、いわれたので、携帯番号を交換した。
にこやかに、私のもとを離れていく彼女の後姿を見送っていると、人ごみの中を走り出てきた男の子が、彼女にぶつかっていった。
ぶつかると思った瞬間、男の子は、彼女の身体を通り抜けてしまった。
彼女は、そのことに気づかぬままに、振り向き、私に、手を振っていた。
私は、その時に納得した。
まわりの人々が、だれ一人として、彼女に関心を示さなかったのは、彼女は、この世の者では、なかったからであった。
彼女は、他の人からは、見えないのである。
彼女は、そのことを気づいてないのだろう。
彼女が人ごみの中へと消えたところを見ながら、そのことを、彼女に伝えるべきか、考えた。
すぐに、決断した。
彼女から渡された携帯番号に電話した。
やはり、つながらなかった。
しかし、コール音だけは、続いていた。