2008年5月9日金曜日

67 二つの太陽

太陽が二つある。
なのに、だれもそのことを口にしない。
見えてないのだろうか。
太陽が二つあることにきづいたのは、昨日のことである。
駅へと向かう出勤途中で、空を仰ぎ見たときに、気づいた。
おんなじ大きさの太陽が並んで、輝いていた。
駅に着いた。
二つの太陽。
大騒ぎをしていそうなものだが、何事もなく、いつものように、駅構内は平然としている。
何か変だ。
携帯でテレビを見てみた。
そこでは、いつも見慣れた人が、朝のニュースを読み上げていた。
いつものように、ただ、ニュースを放送していた。
太陽が二つ。
こんな大きなことが起きているのに、世間では、何も起きていない。
私にしか見えていないのか?
幻想では、なく、現にそこに太陽は、二つ存在していた。
プラットホームで隣りで新聞を呼んでいるサラリーマンらしき男に、尋ねてみた。
「今日の太陽、何か変ですよね。」
男は、太陽を見た。
まぶしいはずなのだが、二、三秒見つめていた。
「いや、いつもの太陽だよ。」
しようもないこと、聞くんじゃないよ、というような雰囲気を感じさせながら、その男は、再び、新聞に眼を戻した。
やはり、私しか、あの太陽は、見えていないようだ。
これは、どういうことだろうか。
私にしか、見ることができない太陽。
あるはずのない太陽が、もう一つ、隣で輝いている。
どう解釈したらよいのだろうか。
大勢の人が、太陽の変化に気づかないということは、太陽には、何も問題がないのだろうか。
私だけが、おかしいのだろうか。
私の頭が変になったのだろうか。
その確率のほうが、高いように思う。
しかし、この太陽は、どんなに見直しても、ふたつある。
私は、自分の頭がおかしくなっていないのを認識している。
では、私以外の人間すべての頭がおかしくなったのだろうか。
そんなことが、ありえるはずがない。
それでは、どういうことか。
私の頭でもなく、他の人々の頭でもなく、では、問題は、どこにあるのだろうか。
問題ではなく、何かが起ころうとしているのだろうか。
何かを私に気づかせようとしているのか。
でも、私だけに気づかせるために、太陽が余分に出現するとも考えられない。
では、何か。
やはり、私の頭がおかしくなっていると考えるのが、妥当な見方であろう。
ということは、では、なぜ、他の人たち、私の周りにいる人たちは、私の異常に気づかないのだろうか。
私は、異常な行動をしているはずである。
なにしろ、太陽が二つ見えているのだから。
それとも、太陽が二つ見える意外は、私の身体に問題はないのだろうか。
それで、他の人々は、私にいつものように接しているのだろうか。
それとも、これは、夢なのかもしれない。
しかし、実にリアルにできている夢である。
夢の中にいるので、変なところに気づきづらいだけなのかもしれない。
それとも、私は、死んでいるのか。
突然の死を迎えた人は、自分が死んでいることに気づかずにいつものように生活をしている人がいると聞いたことがあったが、そうなのか。
私が、そのパターンなのか。
ためしに、壁が通り抜けることが、できるか、試してみた。
だめだった。
痛い思いをしただけだった。
壁を通り抜けできないわけだから、私は、死んでいない。
私は、生きている。
結論がでないままに、今を迎えている。
いま、私は、自殺を考えている。
たいした理由などないのだが、自殺をしようとしている。
ありきたりな自殺をしようと高いビルの屋上にいる。
あと、数歩前に足を進めるだけで、希望の自殺ができるわけであるが、私は、すぐには、足を進めることをしない。
死ぬ前のこの短い時間が、なんだか心地よい気分になってきていた。
死ぬのだから、何も必要なくなってしまい、ほしいものもない。
未来への不安もない。
いま、この一瞬だけが、すべての世界にいま、私は、いる。
なかなかいいものだ。
いまのこの一瞬。
いまだけを生きるのは、いいのかも知れない。
人間が苦しむのは、未来を考えるからなのでは、なかろうか。
今だけ、この一瞬だけを生きるといいものに、なるのかもしれない。
しかし、ほんとの一瞬だけを生きなければ、時間がたてば、未来を考えてしまう。
この一瞬だけ。
この一瞬を生きるためには、この一瞬の後は、必ずの死がなければならない。
一瞬を知ったので、私は、死ぬことにした。
足を一歩進めた。
恐怖は、あったが意外と簡単だった。
私の身体が、落ちていく。
意識が遠のいていく。
そして、意識がなくなった。
そして、目覚めた。
やはり、私は、夢を見ていた。
私は、いつものベットで、目覚めた。
カーテン越しの太陽の強い光りが、部屋の中を明るく照らし出している。
一気にカーテンを引き開いた。
空には、まぶしい太陽が二つあった。
まだ、夢のなかなのか?

2008年4月30日水曜日

66 男は、そこにいた

池袋駅の地下通路。
中年の男が、行き交う人々に向かって喋っていた。
「北から茶碗が落ちてくる」
「・・・・・・・・」
「牛は、足が痛いんだ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ノートを貸してくれない?」
「・・・・」
一瞬、立ち止まり、男が何を話しているのか、聞こうとする人もいるが、その内容が支離滅裂なことに気づき、精神に問題がある人とは、かかわりを持たないようにと、すぐに忙しそうに立ち去ってしまう。
そこに、男が存在していないかのように、人々は、通りすぎていく。
男は、なおも言葉を発していた。
「あの花、僕が植えたんだよ。きれいだよ。」
「・・・・・・・・・・・」
「車の中、だだだだだだ。」
「・・・・・・」
男は、視線をあちらこちらに向けながら、足は、何かのリズムをとっているように大きく、上げたり、下げたりと繰り返し始めた。
次第に、男は喋ることはしなくなり、身体を動かすことに意識を集中しているようだった。
足を踏み鳴らし、天井を見、くるくると小さく円を描くように、歩き始めた。
前方を見ずに、足元だけを食い入るように見ている。
だれも、男を見ようとしない。
通り過ぎていく人々。
男は、周り続けている。
ふっと、男の姿が消えた。
その場から、男が突然、消えて、なくなった。
しかし、だれも気づいていない。
でも、私は、見ていた。
男は、消える瞬間、私の目を見た。
射抜くような鋭い目。
あの男は、キチガイじゃない。

2008年4月18日金曜日

62 白カラスの義   

 

その小さな公園は、早朝の霧雨の中にまぎれるようにあった。
麗(レイ)は、日課の散歩コースの中に、この公園を入れていた。
勝手にカラス公園と名づけている。
初めてこの公園に訪れたときに、一匹のカラスがサッカーボールの上に乗って遊んでいたのを見たからであった。
正式な名前は、あるのだろうが、麗はこの名前が気にいっていた。
カラスが、水のみ場でレバー蛇口式のレバーを動かして、水を飲んでいるのを見たこともあった。
その動きはとてもコミカルで、心がもぞもぞするような楽しいものだった。
サッカーボールで遊んでいたカラスと同じカラスだと麗は、思っていた。
ここのカラスは、何も悪さをすることもなく、賢くてかわいいカラスだと思っていた。
何十羽と集まることもなく、いつも1、2羽ぐらいで公園内をチョコチョコと歩き回っているのをよく見ていた。
いつもなら、雨の日の散歩はやめるのだが、その日は、しとしとと降り続く五月雨の中、なぜか、早起きして散歩に出た。
そして、カラス公園にさしかかった時、公園のあまり手入れのされてない茂みのような植え込みの中で、ガサゴソと音を立てているものがいることにに気づいた。
普段、聞きなれている音とは、異なる音に引き付けられるように、その音のほうへと近づいていくと、そこには、一羽のカラスが茂みから出られずに、羽をばたつかせてもがいていた。
引っかかってしまうほどのところには、見えなかったが、さらに、近づいてみてみると、どういうわけか茂みの中に、つり用のテグスが捨てられていたようで、そのテグスに足が絡まってしまったようであった。
麗が、助けようと静かに近づいてゆくと、カラスは、逃げようと余計に羽をばたつかせてしまい、羽が茂みの枝に激しくぶつかり、痛々しかった。
傷が深くならないように急がねばと、麗は、一気にカラスに近づき、上から押さえつけるようにして、捕らえた。
カラスは、悲しいようなくぐもった声を出しながらも、逃げようと身体を捩じらせていた。
麗は、そんなカラスをみて、余計にかわいそうになり、一刻もはやく、開放してやろうと、カラスの足に絡みついたテグスにあせりながら格闘した。
程なくして、テグスがカラスから完全に取り除かれた。
取り除いたテグスは、ずいぶんまとまったものだった。
もしかしたら、悪意のある人の仕業かもしれないと頭の端のほうに浮かんできた。
すべてのテグスが外れたのが分かったのか、少しでも早く人間の手から離れようと一段と激しく暴れだしたカラスに
「これは、貸しな、いつか返してもらうぞ」
アメリカ映画でよくきくような台詞を、伊達もの風に言ってみた。
麗は、カラスにしたこととはいえ、良いことをしたことに対して、照れのようなものがあった。
カラスを押さえつけていた手の力を緩めると、するりと手から抜け出し、駆け出すようにして、力強く羽ばたき、高く遠くへと飛んでいった。
すぐにその姿は見えなくなり、何かを期待するわけではないが、あっけないものだった。
見えなくなったほうをしばらく見ていると、ふと何かを感じて、辺りを見渡すと、まわりの木々に、いつの間にか、いつもはいない5,6羽のカラスが低い枝につかまり、麗を静かに見ていた。
仲間が心配だったのだろうと、麗は、心配ないという意味をこめて、合図をするように片手を挙げたのだが、真意は伝わらなかったようで、同時に、カラス全部が、声を上げながら飛び立ってしまった。
脅かしてしまったと、麗は苦笑いをしながら、散歩を続けた。
麗が公園をでていくと、だれもいなくなった早朝の公園は、動くものが何ひとつないひっそりとした寂しいものになった。
しとしとと降り続ける雨がいっそうそうしていた。



カラスを助けてから幾日かが過ぎたある日。
いつものようにいつもどおりの散歩コースを日々変わる景色を感じながら、額に汗をにじませながら歩いていた。
いつもの公園に入っていくと、麗が散歩の途中で休憩する場所と決めている長ベンチに、全身を白一色のスーツに身を包んだ若い男が、背筋をスッと伸ばして腰掛けていた。
早朝の公園には、似つかわしくなく、近寄りがたい違和感を感じさせていた。
麗はその男の姿をみて、このベンチでの休憩はあきらめ、その男がいるベンチの後ろを行きすぎようとしたとき、その男が、麗の前に立ちはだかるように飛び出してきた。
「キャッ」
いきなりの予想外の男の動きに麗は、小さな声をもらし、腰からくずれるように地面にしりもちをついた。
目を固くつぶり、身体をちぢ込ませた。
男に何かをされると思った。
が、何もおきないのでゆっくり目を開けていくと、まず、目に入ってきたのが、磨かれた白い皮の靴で、次に、折り目がきちんと出ている白いスーツのパンツ、そして、白いスーツの上着、そして、麗を見るのでは、なく、なぜか正面を見たままでいる若い男の顔だった。
まじめそうな男の顔つきに麗は、自分に危害を加えようとしている人間でないと判断し、
「なんですか。危ないじゃないですか。」
立ち上がりながら、男を責めるような口調になった。
「すみません。脅かすつもりは、なかったんですが」
男の声は、こころなしか震えているように麗には、聞こえていた。
男が、すごく緊張しているのが、麗にも伝わってきた。
自分に対して緊張している男の態度は、麗にとっては、自分が大切に扱われているような、何か優位に立っているような気分にさせてくれた。
男の顔をゆっくりと観察する余裕も出てきていた。
落ち着いて見てみると若い女の子たちが喜びそうないい顔していた。
イケメンである。
だが、イケメンは、麗の好みではなかった。
イケメンは、うすっぺらい軽薄な人間としか見えなかった。
好みは、ごつくて、人生の険しい道のりを歩いてきた、くたびれたスーツを着ているようなおじさんが、タイプだった。
「私は、カラスです。あなたに助けられたカラスです。貸しを返しにきました。」
いきなりである。
変な抑揚で話す男は、麗の返す言葉を待っていた。
早朝の公園に場違いな白いスーツ姿で現われ、おかしなことを言っている男。
係わり合いにならないほうがよいと判断した麗は、すぐ、立ち去ろうとした。
そんな麗の表情に自分が信じてもらえてないことを知った男は、
「うそでは、ありません。真実です。信じてください。」
しっかりとしたものごとを判断する能力のある声に変わった。
すくなくとも、異常者では、ない声の音質だった。
話しを聞いてみてもいいかもしれないと思った。
しかし、男は、ニコリともせず、引きつるような表情でそこにいた。
声は、信用できそうなのだが、表情が信用できない。
「わたし、25よ。そんな話し、信じると思うの?」
やさしく対応するときではない感じた麗は、多少きつい言い方をとった。
男は、そんな麗の態度にたじろぎ、
「ほんとうなんです。私は、あのときのカラスです。貸しは、返さないといけないことです。カラスでも人間でも、同じです。だから、こうして、来たんです。あなたの困りごとを教えてください。それを解決します。」
早口で、いっきにしゃべった。
麗に信じてもらおうとしていることは、なんとなく、感じることはできた。
しかし、内容がまともでない。
「じゃぁ、あのときのカラスだという証拠を見せて」
とまどうような困ったような表情をしながら、
「それは、いま、ここでは、お見せできません。」
男の言葉が終わると同時に麗は、何も言わず、歩き去り始めた。
男が、慌てて、麗の前に走り出て、
「分かりました。じゃぁ、しょうがないんで」
と、言いつつ周りを見、だれもいないのを確認すると、白いスーツを身につけたイケメンは、一瞬にして、黒いカラスになった。
ベンチの端にのっかり、麗のほうに向き、
「カァー」
と、一声、鳴いた。
すぐに、もとの男の姿に戻った。
ほんの一瞬のの出来事であった。
男は、辺りを見ている。
少し離れたところで、一人の小さな女の子が、こちらを見ていた。
驚いた表情で立ちすくんでいる。
いま、起きたことを見てしまったことは、確かだ。
男は、がっかりしたような表情で、ベンチに腰を落とすように腰掛けた。
麗も、目を大きくして男をみている。
「人間は、あまり知らないけれど、こんなこといっぱいあるんですよ。」
男は、麗に背中を向けたままで
「信じてくれました?」
「信じた、うん」
思考も止まりそうになっている麗は、身体に力が入らず、腰がふわふわしてしまっていた。
男のとなりによろめくようにゆっくりと腰掛けた。
「ほんとに、あるんだね。」
「そうです。あるんです。」
男は、麗の状態に気づき、麗の背中をさすりながら、
「やっぱり、カラスだということを言わなければ、よかった。」
男は、後悔しているようだった。
「あの女の子も見たよなぁ。脅かしちゃったなぁ。」
肩を落としている男の姿をみて、麗は、なんだか親しみを感じ始めていた。
麗は、男が現れた理由を思い出した。
「あのとき、私が、貸しって、言ったから、ここにきたんでしょ! でも、あれ、冗談だから、いいのよ。」
「でも、こうして私が、ここにきた以上、貸しを返さない限りは、私も、帰るわけには、いきません。人間に、貸しをしたままだと、カラス仲間にも、顔が立ちません。どうか、何か、私にさせてください。なんでもいいんです。」
「そんなこと言われても、困っていることないんだよねぇ」
麗は、男の思いをかなえてやりたいと、うなりながら、しばらく考えていたが、やはり、出てこなかった。
「やっぱり、ないね。だから、いいよ、忘れて」
「そうはいきません。思いついたら教えてください。私は、このままで、いるわけにもいかないので、カラスに戻りますが、私は、いつでも、傍で、まっていますから。」
そういうと、あっという間にカラスの姿に変わり、ベンチの後ろに立っている大きなイチョウの木の枝にとまって、麗を静かに見下ろしていた。
その目は、早く、早くと催促しているようにみえた。
しばらくは、その場で考えていたが、カラスの目が気になりだし、いたたまれなくなり、
「明日、来るから、それまで、考えておくから」
麗は、そういうと公園を逃げるように出てきた。
貸しの戻しの押し売りにも困ったものだと麗は、考えていたが、あのカラスの気持ちも分かる気がしていた。



次の日、麗は、カラスにしてもらうことがみつからないので、公園に行きづらくなった。
約束を破ることになるのは嫌だったが、あのカラスががっかりするのを見るのつらいので、公園にいくのは、やめた。
麗は、自分がとても悪いことをしているように感じ、ベッドにはいり、困りごとを明日までには見つけて、あのカラスを喜ばそうと思っていた。
目を閉じて、気を落ち着け、考えてた。
しかし、考えても、考えても、ため息がでるばかりだった。
次第に、麗の意気込みはあせりのようなものになってしまい、悪循環となり、よけいに考えることができなくなってきていた。
そうこうしているうちに、とうとう、一日が過ぎ、朝になってしまった。
二日もカラスを待たすわけにもいかず、困りごとがみつからぬまま、公園に向かった。
青年は、やはり白いスーツ姿で、背筋を伸ばして長ベンチに腰掛けて待っていた。
麗が、現れると跳びはねらんばかりに喜んだ。
約束を破ったことには、少しも触れずに、来てくれたことを喜んでいた。
今日も来ないかもしれないと思っていたらしい。
麗は、青年に、してほしいことは見つからなかったことを告げた。
とても、申し訳なさそうにしている麗を見た青年は、
「あなたの疲れた顔から、察すると、カラスとしての私の変なまじめさが、あなたを苦しめたようですね。申し訳ありません。」
青年は、深々と頭を下げ、ベンチに元気なく、腰掛け、
「これだから、我々、白カラスは、人間と仲良くなれないんだよなぁ。あまりにもまじめに固く、行動を考えるから、人間に嫌われるんだよなぁ。」
それを聞いていた麗は、疑問を持った。
カラスは、黒いものなのに、白カラスとは、何なのだろう。
この疑問は、困ったことの一つになるのでは、ないのか。
うれしくなって、カラスの青年の前に飛び出した。
「私、困ったことが出来た。どう、それを解決してくれる?
 これで、貸しがなくなるわよ。」
それを聞いた青年の顔色が一気に良くなった。
「はい、困りごとは、何ですか?」
「困りごとは、私たち人間の知らないことを教えてほしいということ。
それは、あなたが、さっき、しゃべった言葉で、白カラスと言ったけど、カラスは、黒しかいないはずだけど、どういうことなの?
これが、私の困りごと、知りたいけど、私たち人間は、知ることができないので、困りごとでしょ。」
麗は、一気にうれしそうに言った。
「一応、それも、困りごとですね、分かりました。
お答えします。」
麗に近づき、手を握り、
「あの、これから言うことは、だれにも話さないでください。一応、カラスのルールみたいなもので、人間には、カラスは、黒だけしか存在してないように見せておく必要があるものですから。」
麗は、うなずく。
カラスの青年がいうことには、カラスには、黒カラスと白カラスが存在していて、白カラスは、支配層みたいなもので、黒カラスが、労働者階級みたいなものということであり、さまざまなものに身体を変化させることができる力のあるのは、白カラスだけということである。
白カラスの状態でいると、美しいもの好きの人間に捉えられてしまうので、人間のイメージがよくない黒カラスにいつもは、化けているとのことである。
白カラスは、平常の日は、目立たないように黒い身体にしているが、カラスの中で何か問題が起きたとき、白カラスとなり、カラスたちをまとめているということである。
青年は、カラスの秘密などもたくさん話してくれた。
麗が、喜んでいると青年もまた喜んでいた。
そして、貸しが返せたと喜びながら、去っていった。
麗は、カラスの世界が、人間と同じ様なところもあり、ぜんぜん理解できないところがあることなど、いろいろなおもしろいこと知ることが出来たことをとても喜んでいた。
しかし、その記憶は、数時間後には、全て消えてなくなった。
白カラスの監視組織であるものたちが、カラスの世界の情報が人間にながれ過ぎることは良くないと判断し、麗の記憶を消したのである。
その後も麗は、いつものように、公園の散歩にきて、いつものベンチに腰掛け、いつものように休憩を取っていた。
そして、その麗の後ろのイチョウの木の枝には、いつも、一羽のカラスがいた。

2008年4月16日水曜日

61 男の秘密の仕事

女は仕事が終わり、家路に向かう路地をとぼとぼと歩いていた。
生活に疲れていた女は、ほとんど顔をあげることをせず、うつむいたままに足を無理やりに前に動かしていた。
何をしてもいいことがない毎日にほとほと、嫌になっていた。
毎日を忌み嫌って生きていた、そんな女の目の前に、財布が落ちていた。
厚みのある黒い皮の財布。
女の心は、弾んだ。
すぐには、手を出さずに、周りの人の目を気にしながら、だれも見ていないことを確認したところで、かがんで財布に手を伸ばした。
財布に手が、触れた瞬間に、その女は、猫になってしまった。
猫は、以前のことの記憶は、なにもない。
前から、記憶は、猫だった。
その後、その女は、行方不明者として、警察のリストにのることになった。
だれも、女が猫になっていると考えているものは、いない。
その財布は、あちこちに現れ、人々を別のものへと変えている。
犬になったものもいるし、路傍の小石になったものもいる。
触れるものを他のものへと変えてしまうその財布の持ち主は、初老の男である。
その男の正体を知っているのは、その男の家族だけである。
その男の家族は、代々、人を他のものへと変えることを仕事としている。
受け継ぐのは、長男ひとりと決められている。
その他の家族は、家を出るときに、記憶が消されている。
その男は、その仕事をやめることは、できない。
やめるときは、本人が、無限の地獄をさまよい続けることになるからである。
なぜ、こんな仕事があるのか、男本人も理解は、できてない。
それでも、男は、仕事をやりつづけている。

2008年4月9日水曜日

60 ある芸術家の日記 1

ある芸術家の日記

9月29日 土曜日 雨のち曇り

昨夜は飲みすぎた。
居酒屋で飲んだ後、心さびしいのか、もう少し、飲みたかったので、スナックに入った。
ニューホンディという名の店である。
この日で三度目。
そんなに楽しいところでない。
若い子がいるわけでもなく、私を一人の客として、扱ってくれている感じもうけないところである。
でも、他に行くところもないので、入り口のドアを開けた。
金曜日の午後9時ごろ、客が大勢いると考えていたが、予想どおりである、ボックスもカウンターも客で詰まっている。
入るのをやめようか、躊躇した。が、
「いらしゃいませ」
女性店員の大きな声で、仕方なく、一歩、店の中に足を踏み入れた。
ひとつ空けてもらったカウンターの席に着く。
フィリピン娘?  いや、おばちゃんだが笑顔がやさしい女が私に近づいてくる。
名前は、忘れたが、私と同じ年であることは、この店に一度目に来たときに聞いていた。
同じ年、同級生というだけで、今のわたしには、うれしい。
親近感を持っている。
騒々しい店内で、彼女は、笑顔で注文を聞いてくる。
居酒屋でずいぶん飲んできたので、何もほしくはなかったが、とりあえず、ビールをたのんだ。
「アサヒだよね」
彼女が聞いてくる。
私の好みを覚えてくれているだけで、私は、うれしい。
うなずく私。
彼女は、ビールを私に注いで、二言三言、しゃべると、すぐに、他の客のところへといき、はしゃいで、喋っている。
いつもの風景、空虚を感じながら、ビールを一口飲む。
味もしない。
目の前の高い位置にキープされている酒がズラリと並んでいる。
見るだけで、吐き気がしてくる。
その棚に、薄型のカラオケモニターが設置されている。
私は、そこに移っている映像に目をやっている。
文字が反転しながら、映像が変わっていくのをぼんやりとみている。
私は煙草をくゆらしながら、嫌な何かが私を押しつぶすように、包み込んでいるのがわかる。
普通のこういった店では、新たに客が入ってくると、店の女の子が、他の客を相手していても、新しい客につくのだが、私には、つかない。
嫌われているのだろう。
嫌な雰囲気を漂わせているからだと自分では、思っている。
それに、私は、他の客のように乱痴気騒ぎ的なことはしないで、普通にして、ジョークをいうわけでもないので、扱いづらいのだろう。
私は、まわりの乱痴気状態の中でポツンと一人、座っている。
まわりの客を見ることもしない。
見ても、アホまるだしの行動をしている人間を見ると、余計に嫌な気持ちになってしまう。
ただ、カラオケモニターを見ながら、煙草とビールを交互に飲みながら、時間を過ごしてゆく。
すぐに、帰ろうと思うのだが、立ち上がるのも面倒くさいので、そのままでいる。
そうしているうちに、2時間ほどして、店の女性に両手の人差し指で×しるしをつくってみせる。
お勘定する。
ビールを2、3本と小さなお通し、店にひとりでいて、3800円、高いものである。
私は、店を出る。
フラつく足でなんとか立っている。
真っ暗闇の空を見ながら、大きく深呼吸する。
『辛いなぁ』
つくづく思う。
人生とは、こんなものなのか。
何度もこころでいい続けてきた言葉を、また、繰り返している。


10月2日 火曜日 曇り

 南池袋公園に深夜0時過ぎに入った。
灯りが少ない暗い公園の中には、幾つかのベンチが見える。
あちらこちらにあるベンチでは幾組かのカップルが身体を寄せ合い囁きあっている。
ベンチ脇の暗闇にある植え込みの草や葉が動いている。
カップルたちがこれからしようとしていることを覗き見しようと潜んでいる者たちがいるのだろう。
盗撮をしようとしているものもいるのだろう。
カップルもそれを承知している。
どちらにしても、ここにいる者たちは普通の人たちとは、何かがことなる人たちである。
公園の端の方では、ホームレスたちがダンボールで今日の寝床を見事に完成させて眠っている。

私は、端にある朽ちかけたベンチに腰掛けた。
空を見あげる。
今夜も、暗闇だけである。
煙草に火をつけ、くゆらしながら眼を閉じていると、
激しい息遣いが、となりのベンチから流れてくる。
カップルが我慢できずに始めたようだ。
周りの植え込みがざわつき始める。
今日は、ギャラリーが多いようだ。
私は、公園のほぼ中央にある噴水池へと近づいてゆく。
コンクリートで固められ、廃墟のように存在している池。
夜、噴水は止められ、静かにしているのでよけいにそう感じられてくる。

私は、噴水池の端に腰掛ける。
手を池の中に沈ませる。
冷たい。
しばらくそのままにする。
冷たい水の心地よさが手を伝い、身体にじわりと浸み込んでくる。
数時間でも、こうしていたい。
だが、手を池から引き抜き、服に水分を移していく。
冷たくなった手で頬を包む。
手にはまだ、池の水の清いものが感じられた。
私は、財布から、一万円札を一枚取り出し、
沈黙している水面にふわりと浮かべる。
短くなった煙草を深く吸い込み、浮かぶお札に大きく吹きかける。
お札は、私のもとを離れていく。
ここで何をしようと、私に気を向けているものはいない。
煙草を踏み消し、そのまま、私は、漂うように公園をでていく。

公園の外には、現実の時間が待っていた。


10月10日 水曜日 曇り

立ち飲み屋の枡屋に入った。
夜8時ごろだった。
池袋の中で自分が、一番入りやすいところだ。
自分と同じ人間たちが集まっているところ。
浮浪者に近い人から係長くらいまでの人々しか来ないようなところ。
私は、勝手にこう決め付けている。
満杯状態の日が多いこの店、今日は、5、6人しかいなかった。
黄色い派手な短パン姿の男、ジョギング中の感じでもない緩みきった身体で、なんでそんな格好でいるのか。
店を去っていくスーツ姿の男に深々と頭を下げている。
私は、男の顔を見ることはしない。
眼の端でその男の行動を見ながら、私は、店の中央付近のカウンターに近づいていく。
新顔の店員が、この店には似つかわしくないバカ丁寧な調子で注文をとりにくる。
酒と柿ピーを頼む。
290円くらいだったような気がする。
酒と柿ピーを両手に持ち、カウンターと反対側にある壁についたカウンターの端にいく。
入り口に近いところ。
私の好きな定位置。
この位置は、目の前の壁が畳の一畳ほどの大きな鏡がすえつけられているし、そとの人々が行き交うのがよく見える。
そとの人々を肴に酒を飲み、鏡にうつる店内の人々をチラチラ見ながら煙草をふかし、と便利な位置である。
今日も、チビチビ飲みながら、外を行き交う人々を見ていた。
異様に短いスカートにハイヒールをカタカタ鳴らしながらだらしなく歩く若い女。
その姿には、もったいないきれいな白い足を眼で追っている男たち。
足早に過ぎていくリュックをしょったまじめそうな若い男。
手をつないでうれしそうに目を輝かせて、彼氏を見ながら歩いている少女。
いつもの街の風景。

そこに、いつもとは少し異なる空気の人間が現れた。
細く白い杖で足場を確かめながら、そろりそろりと歩を進める目の不自由な若い男。
この街に慣れていない。
道に出してある看板をコツコツたたき、停めてある数台の自転車をたたき確かめながら、歩を進めている。
自転車に本人のカバンか何かが当たり、数台の自転車は、ドミノ倒しとなる。
気づいた本人が自転車を起こそうとしている。
このごみごみしたところでは、しょうがない。
杖を下に置き、自転車を起こそうと難儀している。
立ち話をしていたガラの悪い二人の男が、それに気づいて近づいていく。
二人の男は、自転車を起こし、目の不自由な若い男の手に杖を持たした。
目の不自由な若い男は、二人の男になんどもお辞儀をして、駅のほうへと歩を進めていく。
二人の男は、また、煙草をふかしながら、何事もなかったように普通に話している。
ちょっと、心が緩んだ。
私は、グラスに残った酒をいっきに飲み干し、外に出た。
目の不自由な男を捜した。
すぐ先で、信号待ちをしていた。
こういう人間がこの池袋のような繁華街でどういう行動をするのか知りたくなった。
10メーターほど離れて、後を追った。
煙草をすいながら、その男を直接見ることはせずに、目の端でとらえながら、ふらふらと後を追った。
男は、信号を渡ると駅の東側へとつながる地下道のほうへと進み始めた。
帽子専門店の前を過ぎ、300円飲み屋を過ぎ、ゆっくりゆっくりと歩を進めている。
私は、信号を渡らずに、いる。
近づきすぎるのはよくない。
目が不自由でも人間の五感は、退化しているとしても、何かの違和感を感じて、こちらの存在を知りえるかも知れないからである。
男の身体を見ることもしない。
目の端でとらえているのは、男の身体の輪郭程度である。
私は、ゆっくりついていく。
地下道の近くまで、来た。
その男は、立ち止まった。
くるりと向きを変えると、今、来た道を戻り始めた。
はっきりとはしないが男は、わずかに笑っているように見えた。
ゆっくりゆっくりと戻っていく。
私が後を追い始めた信号まで戻ってきた。
立ち止まった。
また、向きを変え、地下道のほうへと向かう。
ゆっくりゆっくりと進んでいる。
私は、少し距離をとり、煙草に火をつけた。
その時、クラクションが鳴り響いた。
私の後方である。
そのほうに目をやると、赤信号で道路を横切っている女にクラクションが鳴らされていた。
目を男のほうに戻した。
いない。
辺りに目を配るが男はいない。
足の動きを少し速くして、男のいた辺りに近づいた。
右も左も前、後、どこにもいない。
私は、足を止めることはせずに、そのままの歩調で地下道に入っていった。
ここにも、姿はない。
あの男の歩くスピードなら、ここに入ったならば、ここで追いつけるはずであった。
地下道の反対側の出入り口まで、見渡すが男はいない。
見失った。

何か変な感じを受けた。
私は、歩き続けた。
周りと歩調を合わせながら。
地下道を抜け、駅の東側の街へと入っていった。
そのまま、一時間ほど、街をうろついた。
単なる尾行の失敗。
そう思う。
違うような気もする。

59 反応

遅くまでの残業を終え、電車に飛び乗ったのは最終の便だった。
座席につくと、すぐに寝入ってしまった。
アパートのある池袋駅のアナウンスで目覚め、カバンを両手に持ち、飛び降りた。
駅の西口をでたところで、カバンの手に伝わる感触がなにやら普段と違う気がして、カバンをみた。
自分のカバンでない。
色は、自分のと同じ黒色だが、形が全く違うものだった。
しかも、反対側の手には、いつもの自分のカバンをしっかりと持っている。
明らかに、私は、隣のひとのカバンを持ってきてしまったということをあらわしていた。
私は、すぐに、駅に引き返した。
駅の改札の駅員の傍までいってから、カバンを駅員に渡すのをやめた。
見も知らぬ他人のカバンの中身を見てみたいという衝動に駆られたのだ。
だれのカバンもたいして、変わりのないものであることは、承知であるが、見てはいけないものだからこそ、見てみたいという感覚に私にもある善の心は、片隅に押しやられていた。
急ぎ足で、駅を出ると、西口公園のベンチに腰掛けた。
まわりの人間が私を見ているような気がして、顔を上げて周りを見ることが出来ずに、うつむいていた。
しばらくすると、うつむいた姿勢のままでいることに身体がきつくなり、また、この姿勢のままでながくいることは、まわりの人々からすると、不審の体勢にみられるのではないかと、考えられてきた。
それで、なるべく、さりげなく見えるように、ゆっくりと、顔を上げ、まわりを見渡すと、夜、遅い時間だけれど大勢の人が、まだ、いたのだがだれ一人として、私を見ているものはいなかった。
私の考えすぎだった。
ここは、東京だ。
身近にいようと、となりの人に関心を示さないのが、東京である。
ましてや、故意にないにせよ、私が他人のカバンを持っていることを、この場にいる誰が、知っていようか。
私は、自分が疑心暗鬼になりすぎていたことを、自分で情けなくなった。
なんて、気が小さい人間だと。
それでも、私は、その見知らぬカバンを開けるときに、大事なものを探す風に装いながら、カバンを開いている自分がいることのに気づいていた。
どこまでも、臆病な人間である。
つくづく、思った。
開いてみたが、予想どおりである。
たいして、面白いものがあるわけでもなく、仕事のものであろう、幾枚かの書類と小さなメモのような走り書きなどが、しわくちゃに入っているだけだった。
ためしにと、メモの一つを開いてみると、そこに、書かれていることに、私は、胸を何かにつかまれてしまったかのような気持ちにさせられた。
そこには、“いま、このカバンをお持ちのあなた、私は、見ていますよ。ずっと。”
そう書かれていた。
ただ、それだけである。
どうせよ!でもなく、返せでもなく、見ているとだけある。
要求があるのではないことに、怖さがあった。
自分が今、だれかに、この場を見られているのかと思うと、急に身体が熱くなり、顔を上げることができなくなった。
自分を見ている人間と目が合ってしまいそうで怖かった。
私は、しばらく、そのまま、動かずにいた。
そして、この場を切り抜けるには、どうしたらよいのかを混乱している脳で考えていた。
答えが出た。
逃げることだった。
今なら、私がだれかもしらないはずである。
私は、いきなり、走り出した。
その見知らぬカバンは、その場にのこしたままである。
走りに走った。
夜の池袋を走り続けた。
人が少ないほうへと走り、誰もいない公園の中へと走りこんでいった。
後を追いかけてくるものはいない。
周りにも、だれもいない。
急に走るのをやめたら、身体中から、汗が噴出してきた。
公園の水道で、水を大量にかぶるように飲んだ。
すこし、落ち着いてきた。
暗い公園のベンチに座り、カバンのことを再び、思い出してみた。
ただのいたずらだったような気がしてきた。
見事にひっかかったというところだろう。
西口公園では、このカバンを仕掛けた人間がいたのかもしれない。
さぞ、私の行動をみて、楽しかっただろう。
そんなことを思いながら、煙草に火をつけ、大きく煙りを吸い込んだところで、
正面のベンチの横に、人が座っているのに気づいた。
暗闇に目が順応してきて、はじめて、気づいた。
この前にいる男は、私をずっと見ていたことになる。
煙草にむせながら、男を見た。
男は、私を見続けている。
この男は、もしかしたら、あのカバンに仕掛けた男をグルなのではないか。
そう思うと、すぐに、ベンチから腰をあげ、公園を出た。
道には、人がいなかった。
こうなると、人が少ないことに、恐怖を感じていた。
背後から、おそわれるのではないかと、背中の皮膚がぴりぴりと痛みをかんじるほど神経は過敏になっていた。
私の、歩く早さが、次第に早くなっていった。
指にさしていた煙草を投げ捨て、そして、遂には、走り出し始めた。
後ろを見ることをせずに、ただ、人が大勢いる繁華街へと走っていた。
人ごみに安心があると考えていた。
にぎやかなところへと、たどり着くと、居酒屋に、とびこむようにしてはいっていった。
何事もなかったように、カウンター席に座り、生ビールを注文して、一気に飲み干した。
何かが、ビールによって洗い流されたような、爽快な気分になってきた。
そのときになって気づいた。
私は、ビビリ過ぎていたと。
なんでもないことに私は、気をつかっていたと。
その日、私は、ひとりで、大いに飲んだ。
一人なのだが、自分の中にいる自分と大いに語り合っていた。
好きな手羽先を大量に食べながら。

2008年3月14日金曜日

58 その力

 静かな雨の夜の日だった。
さゆりは、仕事を終えて、疲れた足取りで一人暮らしのアパートに帰ってきた。
ところどころ塗りのはげた青い鉄のドアの鍵穴に鍵を差し込んでまわした。
ドアノブをまわすが、開かない。
鍵をまわしたのに、開かないのは、最初から鍵はかかってない状態に鍵をかけたことであることにすぐに気づいたさゆりは、自分の失敗に、自分であきれていた。
「危ないなぁ」
独り言をいいながら、もう一度、鍵をまわし、中に入り、玄関の明かりをつけ、濡れた黒い傘を壁にたてかけた。
ドアの鍵をかけ、チェーンをかけ、服の濡れをきにしながら部屋の中へと入っていった。
疲れきっていたさゆりは、部屋の灯りをつけることもせずに、玄関の灯りと外から入ってくる隣の街灯でぼんやりと見えるベットに近づくと、濡れた服をすばやく脱ぎすて、下着だけになり、ベッドに崩れ落ちるように横たわった。
すぐに、さゆりの寝息が、1DKの小さな部屋に満ちてきた。
ときおり、通りを行き交う車のタイヤが、雨で濡れたアスファルトの上を水をはねながら、遠くへと過ぎさっていく音が、アパートにも流れ込んできていた。
それから、数時間が過ぎ、雨も上がったころ、体に何もかけずに眠り込んでいたさゆりは、寒さを感じて、目を覚ました。
掛け布団の中に入りなおそうとした時、目の片隅に、いつもとは、異なる大きなも黒いかたまりが、部屋の片隅にあることに気づいた。
ぼんやりと見えるものが、徐々に人の形になってくると、さゆりの喉はひきつるように空気を吸いこみ、両手は、かけ布団をわしづかみにして、体は、硬直してしまった。
大きく見開かれた目は、その黒いかたまりを凝視し、ひきつったのどからは、かすれた声しかでてこなかった。
「だれ?」
「・・・・・」
「だれなの!」
その大きな黒いかたまりは、申し訳なさそうに、声をのどの奥から絞り出すように、
「すみません。」
と、太い声を出した。
弱気そうな声にさゆりは、すこし、勇気がでてきて、部屋の入り口にある明かりのスイッチまでかけより、たたくようにスイッチを入れた。
一気に明るい光りで満たされた部屋の片隅には、大きく見えていたかたまりのものはなく、意外と普通の体格の男が正座をして、首をたれていた。
それを見た、さゆりは、一段と勇気がでて、打ち下ろすような口調で
「あんた、だれよ!  ここで、何してんのよ!」
一気に攻めた。
怖さで、興奮しているさゆりだったが、自分の言葉があまりにも、ありふれていて、この状況では、意味をなさないもだと感じていた。
もっと、ましな言葉は、でてこないものかと自分をいらだった。
しかし、他の言葉など、何もでてこなかった。
突然、その男の体が前に動いた。
同時に、さゆりは、入り口のドアに駆け寄り、震える手で慌てながらチェーンをはずし、鍵を開けドアを開け、外にでた。
廊下を走り出したさゆりだったが、自分が下着姿であることに、気づいた。
恐怖があったが、下着姿を人に見られるのは、もっと、避けたかったさゆりは、とっさに、部屋の前へと引き返し、ドアの前でしゃがみこんでしまった。
中に入るわけにもいかず、下着姿のままで大声を出して人を呼びにいくわけにもいかず、どうすることもできず、涙が自然に出てきた。
泣きながらも。少しだけ開いているドアから中をのぞくと、男は、さゆりのほうに両手を前について土下座をしていた。
男が動いたのは、土下座しただけだった。
男は、頭を床にこすりつけながらも、
「すみません!すみません!すみません!」
その声は、次第に涙声になってきていた。
その姿を見て、男には、危害を加える気がないのかなと考え始めたとき、さゆりは勇気をだした。
「わかったから、そこの服をこっちへ、投げてぇ」
人が来ると困るので大声を出すこともできず、男にだけ声が届くようなかすれ声で言った。
男は、頭を床から上げようとしなかった。
「早く、服をこっちによこして!いそいで!」
さゆりの必死の声にようやく、男が顔を上げ、さゆりのほうをみた。
男は、さゆりが何を言っているのかを理解できない表情で涙でくしゃくしゃになっている顔で、ただ、さゆりを見ているだけだった。
さゆりが、体を上半身だけをドアの内側に押入れて、
「早く、服をこっちに投げて!お願い!」
ドアから男のほうに出ているその姿を見て、初めて、さゆりの状況を察した男は、部屋の中に放り投げてある服を手に取り、さゆりのほうへと近づいた。
「来ないで!見ないで!」
男は、服をもったまま、動かなくなってしまった。
顔はさゆりを見ないように、部屋の奥のほうへと向けられたままである。
「服をこっちに投げて!早く!」
「ハイー」
悲鳴のような声を上げながら男は、顔を動かさずに、さゆりのほうへ服を投げた。
さゆりの手まで届かなかった服をさゆりは、手を目いっぱいのばして、つかんで引き寄せた。
ドアを閉め、部屋の外で、すばやく、渡された服を着込んだ。
そのまま、外に駆け出した。
誰かに助けを求めようとしたが、遅い時間のせいか、通りには、だれも、いなかった。
落胆したさゆりの足に濡れた路面の冷たさが伝わってきて、初めて、自分が何もはいてないことに気づいた。
その冷たさを感じながら、だれか、現れるのを期待して待っているうちに、次第に、さゆりの心が落ち着いてきた。
あの男は、強姦しようとあそこにいたのでは、ないのかもしれないと考えはじめていた。
泣きながら土下座している姿は、強盗をしようとしているとも思えなくなってきていた。
警察を呼ぶ前に、確かめてみる気になっていた。
しかし、危ない人間かもしれないとの気持ちもあり、武器になるもをさがすと、さび付いたゴルフクラブがひとつあったので、それを両手で握り締めながら、部屋の前までやってきた。
そっとドアを小さく開けて、中をのぞくと、男は、力なく下を向いたままうなだれていた。
みるからに、すべてを後悔しているのが、わかった。
さゆりは、そんな男にドアから、顔だけを入れて、
「どうして、ここに入ってきたの?」
と厳しく尋ねた。
うつろな目をさゆりのほうへゆっくりと、向けると、
「気づいたら、ここに、いたんです。本当です。」
「うそ!そんなこと、あるわけないじゃない!」
「・・・・・ほんとうです。」
「ほんとうのことをいわないつもり!とぼけるつもり!」
「本当なんです。僕は、海で魚を採っていたんです。海に落ちたのは、覚えているんですけど、
 その後は、覚えていないんです。気づいたら、ここに、いたんです。
 そしたら、あなたが入ってきて、服を脱ぎ始めて、ベッドで眠り始めたのでびっくりしたんです。」
僕という言葉をつかったので、さゆりは、男の顔をよく確かめてみると、真っ黒に焼けた肌と作業服に気をとられていて、40、50歳くらいかと思っていたら、
20歳代の若い男だった。
30歳手前のさゆりは、自分のほうが年上だと思うと、勇気が出てきた。
ドアを開け、中に入ったさゆりは、男を見下ろすようにしながら、
「どうして、こんなことしたの。犯罪よ」
「本当に、気づいたら、ここに、いたんです。自分で入ってきたわけでは、ないんです。」
すがるように、言う男の言葉には、うそを感じられないのだが、ここに現にいる男が、そのことを否定していることを証明していた。
理性は、この男は、うそを言っていると判断し、
感覚では、この男は、本当のことをいっていると判断していた。
どちらのほうをとるか判断しかねていたとき、男が戸惑いの表情で天井を見上げながら、
「あっ、また、くる」
「えっ、何がくるの?」
と、男をみると、男の表情は、恐怖のようなゆがんだ顔になり、
さゆりのほうをみた。
その目は、悲しそうに助けを求めていた。
その目に、男が言っていたことは、真実であったことをさとったさゆりは、男の身にとんでもない何かが起きていることを感じた。
助けなければ、この若者は、死んでしまうかもしれない。
「何、何が起こっているの?」
男のそばに思わず、駆け寄った。
その瞬間、突然、黒くて巨大な手が天井から伸びてきて、その男の胴体ををわしづかみにし、上へと連れ去った。
その時、身動きできない男の怯えきった目が、さゆりの目を見た。
さゆりは、その目を見返してやるしかできなかった。
一瞬の出来事でしかなかった。
天井を仰ぎ見るさゆりの目には、いつもと変わらぬ天井が映っているいるだけだった。
何が、おきているのか理解できずに混乱しているさゆりの脳裏には、ただ、男の最後の目が何度も浮かんできていた。
そして、数日が流れた。
さゆりは、そのことをだれにも言うことができずにいた。
現実の生活に追われている人々に、さゆりが体験したことを理解できるとは、思えないからであった。
頭が変になったとしか、見てくれないだろう事は、容易にわかっていた。
さゆりは、後悔していた。
男が話していることが、本当のことだと信じないばかりに、男は、あの理解できないような大きな手にどこかに連れ去られてしまったと考えていた。
男のことを信じていれば、あの場所からすぐに非難して、助かっていたのではないのかと、自分を責め続けていた。
しかし、今となっては、どうすることもできないこともわかっていた。
それでも、あの男の最後の眼が忘れられず、何をしていても、思い出してしまっていた。
あの悲しい眼、すべてをあきらめてしまった眼、人間は、自分の運命が自分ではどうすることもできないと知り、もう死ぬことがわかると、あのような眼をしてしまうのだろうか。
あのような眼を見たのは、初めてだった。
さゆりは、あの日から、外に出歩くことがへり、部屋に閉じこもることが多くなっていた。
そんなある日、部屋のベッドに入って眠りに落ちかけていたさゆりのベッドの足元で、重いものが落ちるたような音と振動が、さゆりの身体に響いてきた。
その振動から硬いものでないことは、自然と気づいていた。
さゆりは、飛び起きた。
あの男が、戻ってきたのだと思った。
確信していた。
明かりをつけた部屋の中には、
期待どおりに、あの男がいた。
男は、足を抱えるようにして、びしょ濡れの身体を横たえていた。
ぴくりともしない。
からだを見回したが、怪我はしていないようだった。
でも、意識がないところをみると、身体の中を痛めているのかもしれないと思い、救急車を呼んだ。
部屋にこのまま置いておくと、また、あのばかデカイ手がでてきて、つれさらわれそうなので、病院のほうが、安全だろうとの配慮もあった。
病院で、調べてもらったら何も異常もなく、ただ、眠っているだけとのことだった。
ただ、体力をずいぶんと消耗しているようなので、しばらく、このまま眠らしておいたほうがよいとのことだった。
男は、点滴のチューブを腕に刺したまま、長い時間眠り続けた。
目を覚ましたとのは、夕闇が迫り始めたころだった。
男は、眼の前にいるさゆりに尋ねた。
ここは、どこなのかと。
男は、あの大きな手によって、あちらこちらとつれまわされたので、自分がどこに今、いるのかが、把握できずにいた。
さゆりは、病室の天井を見ながら、病院も危険ではないかと考えはじめていた。
すぐに、男を車にのせて、病院をはなれた。
あの大きな手が、また、現れるのを恐れていた。
男に手のことを尋ねたが、男は、何も覚えていないといっていた。
男の服は、あちらこちらが傷つき、破けていたりするところをみると、男の記憶にはなくても、男は、乱暴に扱われていたにちがいなかった。
はげしい扱われかたをしたせいで、男の記憶がないのかもしれなかった。
男の記憶には、さゆりの記憶もなかったが、男は、さゆりのことを悪い人間では、ないと判断しているようであった。
さゆりのなすがままにしていた。
さゆりは、男をどこにつれてゆけば安全なのか、あの大きな手から逃れられるのかを考えたが、いい答えが出てこなかった。
あの手は、また、男を捕まえにくるのか、それとも、こないかもしれない。
しかし、来るかもしれない、そして、こんどは永遠に男をどこかに連れて行ってしまうかもしれない。
こないかもしれないかれど、来ると仮定して、その時の対応を先に考えておくのがベストだろうと考えていた。
この男を、あの手に渡さないようにするには、あの手が、何なのかをはじめに、知る必要があった。
さゆりが知っているこの手の調べる方法は、ネット検索しか思いつかなかった。
人が多くいるネットカフェのほうが何かと安全だろうと男を連れて、わりと大き目のネットカフェに入った。
すぐに検索しはじめたが、なかなか真の答えのようなものは、なかなかみつからなかった。
しばらく、さゆりが検索していると、男のようすがおかしくなってきていた。
何かを言いたそうだった。
男に、そのことをいうと、なんでもないというばかりであった。
さゆりがしつこく何度もいうと、しぶしぶ話し始めた。
「君が、僕をあいつから、助けようとしているのは、うれしいがたぶん無理だと思う。君は、人間だが、あいつは、人間じゃない。何かは、わからないがこの世のものではないことは、確かだ。もしかしたら、あれが、悪魔というのかもしれない。死神かもしれない。だから、もう、何もしてくれなくていいよ。僕は、これは運命として、うけいれているから。」
悲しい目というより、悟ったような目になってきた男のその眼をジィーと見ていたさゆりは、
「悪魔だろうが、死神だろうが、あんたを苦しめるやつからは、私が守る。必ず。」
なぜ、これほどまでに、男を助けようとしているのか、自分でも、よく理解できていないのだが、同じ人間どうしだからかもしれない。
ほっておけない。やらなければならない。当然のことだと強く感じていた。
男が、あきらめていると分かるとよけいに、さゆりは、男を守ってやろういう気が強くなってきていた。
人間というものは、自分の近くに存在しているもの、同種のものについては、自分より多少弱いと思われるものは、徹底的にいじめ、殺してしまおうとするが、自分よりも完全に劣るものに関しては、反対に、守ろうとするもののようである。
さゆりも、そのようになってきていた。
さゆりは、完全に戦う気力をなくしているこの男を、ただ、守り抜きたかった。
だが、どのようにすれば、守ることができるのかは、皆目、分からずにいた。
人間ならば、どんなに大きな相手でも、対処する方法というものは、これまでの生きてきた人生のなかでの、経験の積み重ねから、ある程度の知識をもち合わせているので、なんとかできるのだが、人間ではない、えたいのしれないものとなると、どのように考えて、戦えばいいものなのか、作戦のたてようが、ないように思えていた。
さゆりは、男の様子をうかがいながら、ひたすらパソコンのキーボードをたたきつづけた。
検索しかないと思っていた。
人間でないものに、対しての対処方法をしっているものが、この世界には、いるのではないかと考えていた。
なぜなら、この男のようなことが、今回が、はじめてでは、ないはずだった。
人間の誕生から今の人間の世界までが、たとえ短いものでも長いものでも、同じようなことが、必ず、世界のどこかで、起こっているはずであると思っていた。
さゆりは、さまざまな言葉を検索窓に入力して、検索しつづけた。
悪魔、死神、天使、呪い、闇、腕、消えるなど、関連するかもしれないと思われる単語をさまざまに組み合わせていた。
関連のありそうなサイトは、幾つか見つけることができたのだが、どれも、遊びの域からは、でていないものばかりだった。
それでも、検索を数時間続けたとき、ヒットした。
そのサイトには、こう書かれていた。
あなたのすぐ、そばには、別の存在が存在している。
読み進めていくと、その存在とは、形を変えながら、この世の中を存在しつづけていたとのことだった。
その存在は、人間が存在するかぎり、その存在も生き続け、いわば、共存の存在であると書かれていた。
つまり、その存在は、消すことは、不可能であるが、その存在を静かにさせることは、可能であるとも、書かれていた。
その存在は、人間の心が弱まると存在を示し始める、そして、人間は、自身で意識を強くコントロールしさえすれば、その存在は、怖いものでは、ないと書かれていた。
つまり、強い意識があれば、その存在に勝てるということである。
弱い心の本人を他のものがカバーすることも可能であると、かかれていた。
さゆりは、すぐに、男にそのことを話した。
しかし、男は、そのことを理解しようとせず、ただ、そんなことがあるはずがない、というだけだった。
意識で、あの大きな不気味な手から、逃れることができるものではないと男のこれまでの人生の経験からでは、そのような答えがでてきたのかもしれない。
意識というものの、パワーを知っていないものには、理解しずらいことかもしれなかった。
さゆりは、その系統のことに関心があり、本をたくさん読んでいたので、すぐに、その意識の力を理解することが出来たのだった。
物体とは、意識の束の塊であることを、すでに、さゆりは、知っていた。
この世の中のことを、意識で動かすことができるということも知識としては、持っていたが、それを、現実に使う状況になろうとは、おもっていなかった。
さゆりは、男が信じてくれなくても、自分が信じて意識を動かせば、現実も動かすことができると、強く思っていた。
だから、すぐにでも、あの巨大な手が、現れるかもしれないこの状況では、すぐに、意識を集中しはじめた。
さゆりの頭のなかで、意識は、ある方向へと動き始めた。
その意識は、想像し始めていた。
あの巨大な黒い手が出てきたときに、さゆりの意識でつくりだした白い大きな手が出てきて、黒い手をポキリと追ってしまい、男とさゆりは、助かるというものだった。
さゆりは、その想像を幾度も意識を集中して、繰り返した。
想像が創造になることを微塵の疑いのこころもなく、想像できるように、呪文のように、お祈りするように、頭の中で、繰り返した。
男は、さゆりのそんな姿をみて、男もまた、さゆりと同じ想像を共有し、さゆりと手をつなぎ、繰り返し想像した。
呪文のように、繰り返していたふたりの想像が、数時間続けられていた時、二人がいるネットカフェの天井が、音もなくゆらゆらと揺らめき始めた。
その揺らめきは、次第に大きくなり、ネットカフェの床も各ブースの仕切りとなっているパーテーションも揺らめき始めた。
あちこちから、客たちのざわめきが出始めていた。
さゆりたちも、ざわめきのなか、ひたすら、意識を集中することに勤めていた。
すぐそばに、あの巨大な黒い手がちかづちていることは、気づいていたので、さらに、いっそう、意識を集中させていった。
次第に、ふたりは、まわりの騒ぎなども耳に入ってこないほどに、集中してきていた。
天井の蛍光灯がわれ、あちらこちらで、火花がはじけはじめていた。
その二人の真上の天井が大きく揺らぎ始めると、黒い大きな手がゆっくりと形をなし始めていた。
他の客たちには、何も感じないのか、そして、見えないのか全体が揺れ続ける中で、いつもと変わらぬ行動をしていた。
そんななか、黒い巨大な手は、完全な形になると、すぐに、さゆりたちに、襲いかかろうとした。
その時、さゆりたちのからだから、いきなり大きな白い手が飛び出した。
その白い手は天井から近づいていた黒い手に飛びつき、わしづかみにすると、黒い手の手首をあっけなく、へし折った。
その瞬間、ネットカフェ全体に大きな塊のような振動と落雷のような激しい音が鳴り響いた。
一瞬であった。
それで、すべてが終わったようであった。
さゆりは、終わったことを確信していた。
なぜなら、さゆりの意識は、これで、すべてを終わることを望んでいたからである。
すぐに、いつもの、風景が戻ってきた。
いつものように、大勢の客たちは、それぞれ思い思いの行動をしていた。
さゆりは、そんな客たちをみながら、男を外に連れ出した。
あの大きな黒い手がなくなったからだろうか、男の目には、強い光が宿ってきた。
人間の男らしい目の男である。
男は、記憶もはっきりとしてきた。
そして、男が語り始めた。
あの黒い手は、男が一人で漁をしていると、いきなり、海の中から現れ、男の身体を海の中にひきずりこんだということであった。
そこからは、どこかわからぬところをあちらこちらと引きずりまわされていたのである。
男は、圧倒的な黒い手の力に抵抗することが出来ず、ただ、もうじき、自分は、死んでしまうだろうと強く考えていたらしい。
男がさゆりにそのことを話しているとき、男は、突然、身体全体の関節が抜けたかのように、崩れ倒れていった。
さゆりは、すぐに、この倒れ方は尋常ではないことがわかり、男の首もとに手を添えて、脈をとると、すでに、反応はなくなっていた。
男が、死んだのは、あの大きな黒い手が原因ではない。
男自身の強い意識がこの結果をつくりだしたとさゆりは、気づいていた。